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 新人袖野の相手をしているうちに今日も定時で仕事は終わった。帰り際にいつも会社の駐車場で見かける赤いイタリア製のスポーツカーが目に留まる。桜井社長自慢の車だ。他にも車を数台所有しているらしいけれど、庶民の僕には手が届かない高級車ばかりらしい。羨ましさはあるものの、僕は自分のミニバンに十分満足していた。  午後六時過ぎに愛車で塾まで愛美を迎えに行く。  日が沈み暗くなってきたらいつもそうしているから。夏場は塾が終わると歩いて家まで帰ってくるのに、暗くなると怖くて帰れないらしい。こういうところは小学生の娘らしい。  そんな愛美は学校が終わると普段学童で待っている。ただ水曜日と金曜日は隣町にある塾まで通っているので、そこで待っているのが日課だ。隣町と言ってもさほど遠くない。歩いて十五分くらいの道のり。友達の多くがそこへ通っているから愛美も通うそうだ。ただ妻の沙耶はそんな愛美に対して非常に厳しい。塾に通う以上、きちんと宿題をやってもらうと。やっていなければ夜中でも叩き起こして宿題をやらせる時もあるほどに。  沙耶は根が真面目な性格なのだ。だから仕事も断れず、関わった事件は解決するまで諦めない。夜中まで調べ物をし続ける。家庭をまったく顧みずに。 「お疲れさん。愛美」  助手席側のドアを思いっきり開けてランドセルを後ろに放り投げた愛美は、助手席を我が物顔のように占拠した。シートベルトをするなり、ラジオを消して自分の好きな流行りの音楽を聴き始める。 「ああ疲れた。もう最大公約数なんて分かんないよ。塾ってイヤ~」 「お前が行きたいって言ったんだろ。文句ばっかでバカじゃねえか」 「バカはパパに似たんでしょ。小説家ってバリバリの国語虫だから」  なんやかんや愚痴を零しながらも、僕を「パパ」と呼んでいる。今朝とは違い機嫌良さそうだ。 「ほら、またバカ発言出たあ。お父さんはこう見えても理系だから、算数も理科も得意なんだぜ」 「うっそ~」 「嘘じゃねえ。世の中は計算と観察と発想の転換。そう、最大公約数もそんなもんだ。分数の割り算には必須だぜ。まあ、お父さんも三角形の法則を知るまでは苦手だったけどな」 「それってピタゴラなんちゃらってやつ?」 「いいや。チェバの定理ってやつ。どんなもんか知りたい?」と得意げな顔を向ける。 「チェバのていり?」 「そう。三角形のどこに点があっても、それは三つの頂点からの距離比が決まってるってやつで、偶然ではなく必然だというもの。つまりは人間関係のようなもので……」 「あ、それより帰りにコンビニ寄って。アンマン食べたーい。お・ね・が・い」  完全にスルーされた。ホント、愛美のバカさ加減には腹が立つ。なんでもかんでも出来ないのを親のせいにして何一つ興味を持ってくれない。僕と愛美に血の繋がりがないから簡単な算数も分からないのかもしれないけれど、それを抜いても立派な馬鹿だ。  なのに欲しいものがある時だけ頭を垂れてきやがる。小賢しいというか、あざといというか、愛美の将来が心配で仕方がない。そんな愛美の性格を知りながらも僕は、妻とは違い優しいからアンマンくらい買ってやるが。わざと愛美の企みに乗ってやるだけ。甘っちょろい奴だと思われようとも、今、僕は愛美の父親だから。  そんな愛美はホカホカのアンマンを食べて機嫌が更に良くなってきたのか、珍しく学校の話を聞かせてくれた。 「そうそう、ハルちゃん今日学校休みだったよ。昨日あんなに元気だったのに風邪でも引いたのかな?」 「ハルちゃんて音無春香(おとなしはるか)ちゃん? あのメガネかけた三つ編みの?」 「そうだよ。珍しく先生もなんで休みか知らないんだってさ」 「へえ。あそこお金持ちだからなあ。いきなり海外旅行とか行ってたりして」 「え~! いいないいな」 「お父さんの知り合いのお医者さんも夏に休み取れないからって、十月くらいに家族旅行したりしてたぜ」 「マジで? 学校サボれて羨ましい」 「そこかよ」  車中で喋っているうちに家へと到着した。楽しい時間はいつも過ぎるのが早いもので、エンジン音にその余韻を重ねる。何も気にせず車から降りて行った愛美に、監督不行きで明日も沙耶に叱られてはたまったものではないと思い、僕はすぐに宿題をやるよう急かした。油断をするとテレビを見始めるため、愛美から急いでリモコンを取りあげる。  そして僕は夕飯を作り始めた。今日はどうやらサンマを焼くらしい。冷蔵庫に解凍されたサンマが三匹丁寧に陳列されて置かれてあった。その隣には昨日のお惣菜も。妻が出掛ける前に置いて行ってくれたようだ。 「またサカナ? 魚イヤ~」  宿題を終わらせた愛美はサンマの匂いに機嫌を損ねてしまった。旬の食材だと言うのに嫌な顔をされてしまっては、用意しているこっちまで嫌な気分になる。 「もういい。食べなくて結構。愛美の好きなようにしなさい。お父さん知~らない」 「ああ。アンマン食べてお腹空いてないし、ご飯とみそ汁だけでいいや」 「だからお前はすぐ風邪引くんだよ」 「うっせえなあ」 「なんだその口の聞き方は? 頼まれたって、もうアンマン買ってやんないかんな」  また結局口喧嘩が始まってしまった。車の中までは上手くやれているのに、家へ帰ってくるといつもこうなる。普段家に母親がいないからかもしれないけれど、血が繋がっていないせいもあるかもしれない。娘にどこか冷たい感情を抱いてしまう自分がいた。
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