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八
夜遅くになって沙耶が帰宅した。また今夜も愛美が寝静まった頃に。僕は缶ビールを片手にサスペンスドラマの録画を見ていたが、玄関の開く音と同時にそれを消した。そして台所へ行き電気ケトルでお湯を沸かす。
そのままリビングにくたびれた顔で現れた沙耶。だいぶ疲れているのか上着を脱ぎ棄てるとソファに寝転がるように倒れてしまった。
「お疲れさん。沙耶」
そっと温かいコーヒーと生チョコをソファの前のローテーブルに置く。沙耶の好物だから喜ぶと思って。
「ありがとう、辰巳さん」
「いえいえ。今日はだいぶお疲れだね。何かあった?」
「ええ」
座り直すように体を起こしてソファにもたれかかる妻は、俯いたまましばらく何も喋らなかった。仕事の話は守秘義務があるのであまり語ろうとはしない。ただ難事件になると言葉を選んで語りだす。解決の糸口を僕からも頂戴しようとして。これが僕にとってのネタになるから嬉しいのだけれども。
迷っている沙耶はいつも右耳のサイドヘアを弄りだす。そんな沙耶を見兼ねて僕も隣に座った。
「今日ね、事後報告的にある財閥から娘の誘拐事件が昨夜あったって知らされたのよ」
「ある財閥って音無財閥? 春香ちゃん誘拐されてたの?」
「しーっ、声が大きい。個人名出さないの!」
「悪い悪い」
思わず興奮して声が大きくなり鼻息まで荒くなってしまった。誘拐事件なんてテレビドラマくらいでしか昨今聞いたことがない。そのうえこの近辺で財閥と呼ばれる人は音無家くらいなものだからすぐにピンときてしまった。それにしてもよりによってこんな身近で起こるなんて。
「ただね、身代金一千万円用意しちゃったらしくて直ぐに娘さん解放されたのよ。警察に連絡入れる前に。だからさっぱり犯人像が掴めなくて」
「さっすがお金持ち~」
「そうなんだけど、警察としては困ったものよ。オレオレ詐欺と一緒で何も痕跡ないんだから」
あっけない解決方法に興奮していた熱が一気に冷めてしまった。犯人が身代金の追加要求とかしてくれれば警察にも一報が入っただろうに、そこまで及ばない身代金要求で終わらせるなんて、ホント振り込め詐欺みたいだ。もしかすると誘拐に見せかけた新手の振り込め詐欺なのかもしれないが。
通常、誘拐と言えば警察によるトラップ張りや、電話での逆探知みたいな定番染みたプロセスが聞けるのだけれど、今回のような新手のやり方が流行ると今後聞けなくなるかも。ただ今回は相手が音無財閥だったから成立しただけに過ぎないのに。
「まあ良かったじゃないか。春香ちゃん無事で」
「だからあ、それは黙ってて……そのうえ財閥から、この件については内々で頼むって。これは報告であって被害届ではないと」
「ふうん。変に犯人煽ってもしゃあねえし、娘さんへの誹謗中傷があっても困るしな。あの財閥らしいや」
「そうねえ……そうなんだけど……」
「愛美も春香ちゃん心配してたぜ。昨日まで元気だったのに、なんで休んだんだろうって」
「あ、ホントに」
沙耶はそれ以上は何も言わず、ただただ身近で起きた誘拐事件に頭を抱えていた。痕跡がどこにも残っていない今回の事件に、どう対処していいのか分からないらしい。そのうえ被害届も出されていないから公には動けないと。
「ところで犯人て単独犯なのかな?」
「それも分かんないの。目や耳を塞がれていたらしいから」
はあっと溜め息を漏らした沙耶は逆に「辰巳さんならどうする?」と訊いてきた。
「僕なら……もう一回一千万ゲットを狙うかな。空き巣泥棒みたいにさ、捕まるまでバレないと思う犯罪者って多いから」
「それあるかも」
「愛美だってバレるまで宿題溜め込んでたり、隠してたりするしさ。あれと一緒で所詮は泥棒なんて小学生並みに単細胞なんだよ」
金目当ての泥棒なんて所詮バカで単細胞な人間がするものだと思っていた僕は、すべての頭の回路が小学五年生並みだと思っていた。ただオレオレ詐欺みたいな犯人なら言葉巧みに要求して姿を隠し通す天才かもしれないけれど。
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