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九
二〇一九年十月三十一日木曜日。
次の日の朝は珍しく沙耶と愛美が早く起きていた。どちらかと言うと寝坊したのは僕の方だったようで、朝食まで二人は済ませていた。きっと沙耶のことだ、愛美が心配にでもなったのだろう。口が悪い愛美が春香ちゃんを知らず知らずのうちに傷つけてしまう恐れもあるから。
「ママ、今日ハロウィンだからお菓子買ってえ」
「それパパに言いなさい。今日は木曜日だし、三十一日の月末だからママ忙しいのよ」
「はーい」
昨日だって塾の帰りにアンマンを買ってやったのに、今日も何か食べたいと言われてしまうのか。愛美のわがままについていけないけれどハロウィンとあっては仕方がない。今年のハロウィンも静かに過ごせればそれだけで幸せだし、ここは目を瞑ろう。
「マナ。それより春香ちゃんのお母さんから連絡あったんだけど、もう少しだけ学校休むってさ。なんか体調悪いらしいよ」
沙耶が何気なく愛美にクギを打つ。
「あ、そうなんだあ。もしかしてあれかなあ?」
「あれって何だよ。お父さんにも教えろよな」と僕も会話に割り込んだ。
「あれはあれ。パパには内緒のお話。ねえママ」
「そうそう。女にしか分かんないものよ」
ませた話をする奴らだ。あれについて察しはついたけれど、沙耶が愛美にそんな嘘をついて大丈夫なのだろうか。いや、沙耶は別に何も語っていないのだから嘘はついていないか。愛美の想像だけで膨らんだ会話なのだから放っておくのも一つの手かもしれない。春香ちゃんのメンタルケアが済めば愛美の冗談めいた想像も真実になると思うから、ここはそうっとしておこう。
そこへ玄関のチャイムが鳴った。誰かと思いリビングの窓から玄関先を眺めると、背が高い妻の仕事仲間が二人そこに立っていた。慌てて僕はパジャマ姿のまま玄関へと向かい扉を開ける。
「朝早くからご苦労様です」とこちらから挨拶をした。
「こちらこそ、早朝に申し訳ない。ところで部長はまだいらっしゃいますか?」
黒いスーツに白髪の爺さん、土岐海山警部補が鋭い眼光で訊いてきた。まだそれほど寒くはないけれど、グレーのマフラーを巻いて両肩にぶら下げている。この年でこのセンスとは、土岐さんて独身貴族なのだろうか?
「はい、トキさん。で、そちらはどちら様で?」と若手の方を見て尋ねた。
「はっ。金子一振と申します。まだまだペイペイで、昨日より三浦警部と組まさせて頂きました」
「そうですか。ご苦労様です。では少々お待ちを」
静かに玄関を閉めて足早にリビングの方へと戻った。
跳ねた髪を愛美と一緒に直している沙耶に、早くするよう急かしてみる。今日は事件現場がここから近いため、職場まで出勤せずに直行するようだ。急いで沙耶が身支度を整えて玄関を出る。
「課長も意地悪ね。わざわざ新人の金子くんまで連れて来なくても」
「なあに。黒岩警視監の娘さんをお守りするのがわしらの務めじゃからな」
「嘘よ。どうせ父に何か言われたんでしょ?」
沙耶は少し頬を膨らませて愚痴を零す。土岐警部補は沙耶の父、黒岩厳警視監の同僚だからこの家も知っていたのだが、新人にまで教えなくてもいいのにと。特に事件現場の隣町に三浦の家があるなんて他言されたら、捜査から外されかねない。
あまりプライバシーをさらけ出したくない沙耶は、玄関先で金子巡査に口止めしていた。ご近所でも学校でも沙耶は仕事を隠しているので、金子巡査もあからさまな行動を慎むようにと。
「はい、三浦警部!」
「こらっ」
言われるがまま従順に敬礼する金子巡査に、コツンと頭を叩いていた。
「呼び名は三浦さんか部長でいい。敬礼も省略」
「あ、はい三浦さん」
「この姿を犯人にでも見られたら終わりだからね。警察とはそういうものよ」
それを横目に通り過ぎた愛美は、モデル風のすらっとしたスタイルの金子を気に入ったのか「カッコいいお兄ちゃん、がんばって」と野球帽をチラリと上げて応援し、そそくさと登校した。流し目で見送る金子に少しばかり嫉妬してしまいそうになる。愛美も愛美で父親にはそんな優しい素振りなど見せないくせに、初対面の金子には優しいなんてどこか矛盾している。そう思って見ていた僕に、そっと沙耶が耳元で呟いた。
「新人の金子くんはああ見えて剣道と射撃が得意なのよ。おそらく所轄で一番だわ。趣味がモデルガンとサバゲーらしいから、今時の子と同じだけどね」
「そうなんだ」と金子の顔を見て頷いた。
「じゃあ辰巳さん、私も行ってきます」
「ああ、いってらっしゃい」
今日も朝から沙耶は忙しそうだ。早く身代金を持って逃げた犯人が捕まえられればいいのだけれど。沙耶が忙しくなればなるほど、僕の家事が増えるのが嫌になる。
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