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そして次の休日。俺はおみみの抜け毛を洗うために朝から友人の悠希宅を訪れた。
閑静な住宅街の中にある小さなマンション。その一画に悠希は住んでいる。
マンションに入り階段を三階まで上がる。階段を上がってすぐの所にあるのが悠希の部屋だ。
インターホンを鳴らしてすこし待つと、返事が返ってくる。
「はい、どちらさまですか?」
「あー、俺。おみみの抜け毛を洗いに来たんだけど」
「あ、緑君か。ちょっと待ってね」
俺の存在を悠希が確認して、受話器を置く音がしてからまた少し待つと、ドアが開いて悠希が顔を出した。
「いらっしゃい。道具はもう用意してあるよ」
「ありがてぇ。いつもすまないな」
「いいって。それじゃあ上がって」
「おう、お邪魔しまーす」
悠希に招かれるまま玄関に入り部屋に上がる。悠希の住んでいる部屋は俺の部屋よりもだいぶ狭いけれども、そんな狭い部屋の窓際ではすやすやと柴犬が眠っている。あの柴犬は、悠希と昔から一緒にいる飼い犬だ。
それを見て俺は小声で言う。
「鎌谷が寝てるんなら静かにしないとな」
鎌谷というのがあの柴犬の名前だ。俺の言葉に、悠希はやさしい目で鎌谷を見て小声で返す。
「最近、鎌谷君も寝てることが多くなってさ。
おみみちゃんはどう? おみみちゃんもシニアだって聞いたけど」
「昨夜も大運動会だよ」
「それはそれで大変かも。
でも、元気があると安心だよね」
そう言って悠希はくすくすと笑う。でも、その顔はなんとなく寂しそうで、もしかしたら、最近寝てることが多くなったという鎌谷のことを、すこしだけ心配しているのかもしれない。
すこしの間上下する鎌谷のお腹を眺めてから、俺は持ってきた鞄の中からビニール袋に入れたおみみの抜け毛を取り出す。
「そうそう、おみみの抜け毛を洗わないとなんだよな」
その言葉に、悠希はキッチンの方を指さして言う。
「おみみちゃんの抜け毛を洗うのに、いつもの大きめのお鍋出してあるから。
自由に使ってね」
「おう、サンクス。助かるわ」
たしかに、玄関を上がって部屋に入る途中にあるキッチンにはいつもの鍋が置かれていた。俺は早速キッチンに立って鍋に水を入れ、電熱コンロで温める。
本当はおみみの抜け毛を石鹸で洗った方がいいのだろうけれども、そうしてしまうとおみみだまにする前に抜け毛がフェルト化してしまうし、おみみの匂いも完全に落ちてしまう。なので、いつも熱湯で茹でて軽く脂を落とすのと、消毒をするに留めている。
俺がおみみの抜け毛を茹でている間、悠希はなにをしているかというと、窓辺のちゃぶ台に向かってノートを開いている。
ちゃぶ台の上には何冊もの本が積まれていて、時々それを開きながら、ノートになにかを書き込んでいるのだ。
悠希は小説家をやっていて、こうやって家で仕事をしていることが多い。なので、休日が日曜以外になりがちな俺にも合わせやすいと以前言っていた。
もっとも、悠希の周りには土日定休という名の不定休の友人も何人かいるようなので、土日以外に友人と会うということも少なくないようなのだけれども。
鍋でおみみの抜け毛をしっかりと茹でた後、ザルを使ってシンクでお湯を切って流水で何度か洗う。これでだいぶきれいになったはずだ。
抜け毛の水分をギュッと絞って、一応水滴が垂れないよう抜け毛を乗せたザルを鍋の上に乗せてベランダに向かう。
「悠希、ベランダ借りるぞ」
「うん。鎌谷君踏まないようにね」
ベランダの窓の前では、悠希がノートを開いているちゃぶ台の横に鎌谷が寝ている。それをうまく避けながら、窓を開けてベランダに出る。
ベランダにある室外機の上にはすのこと重りにする石が置かれていて、すのこの上に洗った抜け毛をなるべく薄く広げていく。それから、広げた抜け毛の上に石を置いて重りにして、あとは乾くのを待つだけだ。
乾くまで何時間かかるだろうか。ベランダに吹く爽やかな秋風を感じながら考える。
まぁ、これだけ日当たりがよければお昼過ぎ頃には乾くだろうから、それまで悠希のお世話になろう。そう思いながらベランダから部屋の中へと戻る。
部屋の中に戻ると、悠希がノートから目と手を離して、ぐっすりと眠っている鎌谷のおしりの毛をつまんでいた。柴犬は短毛種とはいえ抜け毛が多い犬らしく、生え替わりの時期にこうやって毛をつまむと、ぽこぽこと抜け毛が取れる。悠希は昔から、こうやって鎌谷の抜け毛をつまむのが好きなんだっけ。
鎌谷の毛をつまんでる悠希に、小声で訊ねる。
「そういえば、悠希は鎌谷の抜け毛で鎌谷だま作んないの?」
それを聞いた悠希は、すこしだけ驚いた顔をしてからくすくすと笑う。
「作らないよ。だって鎌谷君は、そういうので遊ばないもん」
「そっか、それもそうかー」
たしかに、このところの鎌谷はあまりおもちゃで遊んだりしない。同じシニアでも、鎌谷みたいな犬とおみみみたいな猫では、だいぶ違うんだなと思った。
もっとも、種族以外に個体差というのももちろんあるのだろうけれども。
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