現実を置いて駆け出す想い

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「実家に帰って、父の会社を継ごうと思う」 彼の部屋で食事を終えた後、箸を置いた彼が言った。 彼、松本 直樹(まつもと なおき)とは、付き合い始めて、1年半ほどになる。 付き合い始めた時は係長だった彼も、今では課長に昇格している。 「だって、直くん、仕事頑張ってたじゃない! 今の仕事、好きなんでしょ? 何も辞めなくても……」 彼が実家に帰ってしまったら、遠距離恋愛になる。 そんなのは嫌だ。 「そうだけど、俺は、元々父の跡を継ぎたくてここに入社したから」 私たちが勤めているのは、旅行会社。 そして、直くんのお父さんがやっているのは、老舗旅館。 けれど、そのお父さんが、先日、脳梗塞で入院した。 接客中にうまく言葉が出ないことを心配した直くんの妹さんが、すぐに病院に連れて行ったおかげで、幸い、早く治療でき、後遺症も少なくて済みそうだけど。 「でも、お父さんだって、すぐに良くなるんでしょ? 今、直くんが跡を継ぐ必要はないじゃない」 直くんと離れるなんて、絶対いや。 私はなんとか思いとどまらせようと、あれこれ言ってみる。 「父が働けなくなってからだと、父から教わることはできないんだ。まだ父が動けるうちに、父から教わっておきたいと思って」 直くんの決心は固そうだ。 「でも……」 私は、言葉をなくしながらも、諦めきれずに食い下がる。 「優花(ゆうか)」 直くんが優しい声で私を呼ぶ。 「もし、嫌じゃなかったら、一緒に来てくれないか?」 一緒に? 私は言葉をなくして固まった。 「優花、苦労かけるかもしれない。それでも、一生、優花だけは守るって約束するよ。だから……、結婚しよう」 直くんは好き。 結婚したいと思ってた。 だけど、それは課長の直くんと。 「それって、私に女将になれって言ってる?」 私は、分かってはいるものの、すぐには納得できなくて、あえて直くんに尋ねる。 「ダメ……か?」 いつも男らしい直くんが、不安そうに私を見つめる。 「直くんは好きだけど、女将なんて、私には無理よ」 会社で失敗を怒られながら、事務をやってる方が私には合ってる。 「優花なら、できるよ」 直くんはそう言ってくれるけど…… 「ううん、やっぱり私には無理。だから、直くん」 実家には帰らないで…… そう言おうとした時、 「そうか。残念だけど、無理強いはできないよな。優花の人生だからな」 直くんが話し始めた。 「優花、今までありがとう。優花と一緒にいられてすごく楽しかったし、幸せだった」 えっ? それって…… 「優花、絶対幸せになれよ。別れても、俺は優花の幸せを祈ってるから」 直くんは、そう言うと、立ち上がって私の椅子の後ろから、私を抱きしめた。 「俺、来月末で会社辞める。それまで、会社では今まで通りよろしくな」 そう言う直くんの声も腕も微かに震えている。 「えっ、やだよ。私、直くんと別れたくない」 思わず、涙がこぼれそうになる。 「でも、優花ももう25だろ? この先も結婚できない相手と付き合ってたら、婚期(のが)すぞ。将来がないなら、お互いのために、今、ここで終わった方がいい」 直くんの言うことは分かるけど、でも…… 私たちは、この日、お互いを思い合ったまま、さよならをした。
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