第一章

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第一章

 信号が赤から青に変わった。ゆっくりと窓の外の景色が流れ始める。  窓越しに映った自分の頭頂部、根元まで綺麗に染まった金髪を見ていると気分が上がってきた。髪の毛を明るくし始めてからハーフっぽいと言われる。きっとぱっちりとした二重のせいだ。顔立ちははっきりしていると自分でも思う。  前日に美容院に行くくらいに今日の現場を楽しみにしていた。大きい仕事、小さい仕事、どこの現場に行っても同じくらいの熱量で向き合っていたが今日だけは特別。  緊張と期待が混じり合い、心が躍る。  伊織が長年憧れ続けている大御所声優、磯山崇志。いくつもの国民的アニメで主人公から悪役まで、ありとあらゆる役を演じてきた声優界の伝説的存在だ。幼い頃から磯山の声をあらゆるアニメで聞いて育った。  そんな憧れの人の息子と共演ともなれば落ち着きがなくなるのも仕方ない。聞かされたのが直前だったので緊張をほぐす暇も与えられず、件の人が待つレコーディングスタジオまで車を飛ばして向かう。 「そんな緊張しなくても。伊織の方が売れてるんだからさ」 「そういうのじゃないんだってば! そんな簡単なものじゃねーの! 憧れってのは!」 「憧れ、ねぇ……言っても相手は憧れの人の〝息子〟だろ?」  確かに伊織よりも年上なのに目立ったキャリアがない。磯山マニアの伊織ですら息子が声優業をやっているとは知らなかった。聞けば伊織より六つ上の三十四歳で、アルバイトと掛け持ちしながら声優を続けているという。いわゆる売れていない部類。仕事を掴めない人間は三十を過ぎたら声優業に見切りをつけて、別の道を歩むのが普通だ。 「蝶野さんは声聞いたことあんの?」 「もちろん。なかなかいい声だと思うよ」  オーディションは苦戦してるみたいだけどね、と蝶野は付け足した。軽く接した感じは淡白な感じはするけれど、黒縁レンズの眼鏡の奥に宿ったタレントに対する熱い気持ちを伊織は知っている。 「へぇ」  蝶野がそう言うなら本当にその通りなのだろう。普段はあまり言葉や態度に出さないが蝶野には全幅の信頼を置いている。そもそも今回の仕事は大手ゲームメーカーから発売される乙女ゲーム。伊織も驚くような有名イラストレーターやシナリオライターを起用する気合の入ったプロジェクト。その攻略キャラクターの一人に選ばれるには親のコネなど通用しない。 「もう少しで着くから……ってお前! 車の中で菓子食うんじゃねえ!」 「腹減ったの」 「お前さ、もう二十八なんだから少しは常識ってもんをな……」 「はいはい。次から気をつける!」 「はい、は一回!」  舞台俳優として活動していた頃から人気はあったが声優に転身してから更にファンを獲得して、若手トップの人気を誇る声優となった。手帳は仕事のスケジュールで常に埋まっている。そんな伊織からしたら移動時間は貴重な休憩時間。車の僅かな揺れを感じながら考えるのはまだ見ぬ磯山崇志の息子のこと。持ち込んだお菓子を食べつつ気を紛らわせていたら目的地についてしまった。  年季の入ったレコーディングスタジオ。錆びついた防音扉。開けるのにはコツが必要。思い切りドアノブを下にグッと押し込まないと開かない。何回も使ったスタジオだから伊織はもう慣れっこだ。 「ん? 開かない……?」  しかし今日に限ってなかなかドアノブが下がってくれない。ガコッ、ガコッと音を立てながら格闘するが健闘も虚しく扉は開かないまま。 「鍵かかってんのかなー……」  収録の時間はもうすぐ。こんな時間に鍵がかかっている訳がない。なかなか開かない扉に苛立ちが募り、取手が壊れる勢いで何度も下へ押し込む。 「くっそぉっ!」  思い切り力を込めようと全体重をドアノブにかけようとしたその時。  後ろからニュッと手が伸びてきた。驚きのあまりドアノブを力一杯握っていた手がズルっと滑る。ゴツン! と鈍い音が辺りに響いた。 「いってぇっ‼︎」  額がジンジンと痛い。ぶつけた時の衝撃が脳の奥の方までジワジワと染み込んでいく。今朝見たニュースの星座占いでは牡羊座が一位だったのに、なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだ。今日は収録の後は撮影が入ったインタビューもある。もし、ぶつけた額の赤みが引かなかったらどうしよう。  いきなり不意打ちで驚かせたのはどこのどいつだ? と半ば八つ当たりのような眼で背後にいる手の主の方を振り向いた。  振り向いた先には驚きの表情を浮かべた男。まず黒のナチュラルショートが目についた。肌が少しかさついているが服装や髪型のおかげで清潔感のある印象。顔立ちはどちらかというと醤油顔、というより日本人らしい顔立ちをしている。だが決して平坦な目鼻立ちではない。  この顔、どこかで見た気が──  伊織の戸惑いを他所に、彼は二、三回瞬きをした。そしてゆっくり口を開く。少しぽてっと唇から覗く歯の白さに目を奪われる。そして。 「ごめん。驚かせちゃった?」  その声を聞いた瞬間。予期せぬところから思い切り頭を殴られるような衝撃を感じた。先ほどの頭をぶつけた痛みとはまた別の強烈な衝撃。世界がグルンと反転して、グワングワンと揺れる。  まるでチョコレートでコーティングされたかのような甘い低音。ただ低いだけではなく、確かな質量をもったそれは身体の芯までグッと沈み込んでくる。  こんな声、聞いたことない。  たった一声で世界が変わるなんて誰が想像出来るだろうか。 「あの……本当に大丈夫?」  恐る恐る手が伸びてくる。ぶつけてジンジンと痛む額に手が当てられた。その手は思ったよりも冷たくて心地いい。相手の問いかけに答えることも出来ず、伊織はただ放心状態でその場に立ち尽くした。 「あの、」 「ん?」 「俺、アンタの声……好き」  今をときめく大人気声優、阿部伊織。  一目惚れならぬ一聴き惚れをしてしまった。  その相手が憧れの磯山崇志の息子、磯山崇琉であることをその時はまだ知らずに。
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