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●わたしは幽霊じゃなかった
ひかりはコンクリートの廊下にぺたんと座りこんでいた。
目元を擦っては、しきりに瞼をパチパチさせている。血の涙はもうすっかり止まっていた。
「ひかり……。だ、大丈夫なの?」
「うん。もう、なんともないけん。平気」
ひかりはぎこちなく笑った。
わたしはホッとすると同時に、今さら怖くなった。
「平気、じゃないでしょ。あんな無茶して……万が一のことがあったらどうするの。お母さんのこと、もう探せなくなっちゃうわよ」
「そうやねえ。……でも、ヤミちゃんはぼくのこと、好いとーって言ってくれたけん」
「は?」
よっぽどアホみたいな顔をしていたに違いない。ひかりはわたしを見て、微かにはにかんだ。
「ぼくね。……自分のことが嫌いやったと。みんながぼくのことを避けるのは、ぼくが、みんなみたいに普通にしきらんせいやけん。ぼくのこと好いてくれる人がおるとしたら、もう、お母さんしかおらんって思っとったと。でも……」
そこでひかりは鼻をこすると、あの、ふにゃっとした笑顔になった。
「そうしたら、ヤミちゃんが好いとーって言ってくれた。ぼく、こげん嬉しかことなかたい」
「……そう、だったんだ」
知らなかった。
ひかりが、そんなふうに思ってたなんて。
「っていうか……聞こえてたのね。わたしの声」
「うん。半分、夢の中みたいな感じやったけど……ぼくがあいつを追い出せたのは、ヤミちゃんが元気をくれたからやけん。で……目を覚ましてみたら、ヤミちゃんが『自分のこと嫌い』って言っとーとが聞こえてきたと」
わたしは察した。
と、いうことは、ひかりはすべて聞いていたんだ。わたしが自らのウソを白状した、あの言葉も。
だけどひかりは、どういうわけか、そのことを責めようとしない。
優しい声で、ひかりは続けた。
「ぼく、ヤミちゃんがそうやったなんて、全然気づかんかった。ヤミちゃんはカッコよくて、なんでもできて……ぼくとは違うって思っとったけん。……でもね、ヤミちゃん。ぼくがこんなこと言うのも変やけど……あんまり自分のこと、嫌わんでほしいと」
「……え」
「うまく言えんっちゃけど……ヤミちゃんがぼくのこと好いてくれるんやったら、ぼくも、自分のことちょっとだけ好きになれる気がするったい」
それはわかる。
もしも誰かに直接、「あなたが好きだよ」って言ってもらえるのなら、それはきっと、フォロワー1000人以上の自信になる。
「やけん、ヤミちゃんにも自分のこと、好きになってほしいっちゃん。ぼく、ヤミちゃんのこと、すっごく好いとーけん。……ううん、ぼくだけじゃないね。ヤミちゃんには、1000人もファンがおるもん」
ひかりはそう言い、自分のスマホをちょいちょいと操作すると、わたしに向けてきた。
UMOVEの画面だ。ヤミひかチャンネルのフォロワー一覧が表示されている。
大きな「1000人」の字の下に、ずらりと並ぶアカウント名。てっぺんに表示されている、1000人目のフォロワーの名前は「くましろ」だった。
……ん? くましろ?
「くましろ……神代ひかり?」
「あ、気づいた? ぼくも登録しといたっちゃん。昨日は、もう会えないかもって思ったけん……最後に、何か形に残しておきたかったとよ。ぼくはヤミちゃんのこと、好いとーよって……」
その瞬間まで、フォロワー数はわたしにとってただの数字だった。
もちろん画面の向こうに人間がいることはわかっていたけど、どうしてもそれがピンとこなかった。
だけど、今。
そのひとりが、血と肉のある人間として、目の前に立っている。
と、同時に残りの999人分の重さが、どっと胸に押しよせてきた。
フォロワー全員がわたしを好きだとまでは思わない。中には粗探し目的でウォッチしてるやつだっている。
でも……少なくとも無関心ではなかった。
みんな、ずっと、わたしを見てくれていた。
わたしの声を、聞いてくれていた。
わたしは幽霊じゃなかった。
目の前がジワリと滲んで、涙が流れだした。
人前で泣くのなんて幼稚園以来だ。
わたしはその場にしゃがみこむと、声をあげて泣いた。後から後から湧いてくる涙は、胸の中いっぱいにたまっていた苦い気持ちそのものだった。
ひかりは黙って、わたしの背中をさすってくれていた。
ようやく涙が止まったときには、コンタクトが片方どこかへ流れてしまっていた。
ペンキ塗れの手で涙をぬぐったので、たぶん顔もひどいことになっている。
でも、不思議とスッキリした気分だった。
「……落ち着いた? ヤミちゃん」
「うん。ひかり、ありがとう。あんな隠し事をしていたわたしを、許してくれて……」
ひかりは一瞬「ん?」と首をかしげてから、すぐにまた笑顔になった。
「ああ、そのこと。ぼく、前から気づいとったよ?」
「えっ!? そうだったの?」
「当たり前やん。見てたらわかるよ。ヤミちゃんって、本当は……」
ひかりはたっぷりタメを作ってから、びしっ! と指をつきつけてきた。
「すっごく面白い子やろ!!」
……。
は?
「カラオケとかちかっぱ本気やったし、ちょいちょい変顔しとーし。でもぼく、ヤミちゃんのそういうとこもかわいいって思うっちゃん。やけん……」
「ちょ、ちょっとストップ。そこ? そこなの? 霊感の話じゃなくて?」
「霊感が……何?」
えええええ。
「ひ、ひかり。ハリコさんに憑依されてる間も、わたしの声が聞こえてたって言ったわね。……どこから?」
「やけん、ぼくのこと好いとーって言っとーとこ……」
「その前はっ!?」
「え? 前? ……ゴメン、ぼく……なんか、ずっと眠っとー感じやったっちゃん。半分、夢の中っていうか。で、ヤミちゃんの声がするーって思って、目が覚めて……」
つまり……ウソを告白していたときは、まだ夢の中だったってことか。
体中から汗をダラダラ流しはじめたわたしを見て、ひかりがわずかに不安そうな顔になった。
「ごめん。大切なことやったと? じゃあ、ぼく、今聞くけん。話して?」
「エッ! イヤ……ソノ……エエット……」
ど、どどどどどうしよう。
さっきは限界まで追いつめられてヤケクソなテンションになってたから言えたけど……落ちついちゃったらもう言えないよ!
(そうだ。動画。録画した映像が残ってるはず!)
直接、言う勇気が出ないならなら、あれを見せれば……。
「ひかり、ちょっと見てもらいたいものがあるんだけど……」
と、わたしはスマホ三脚のところへ走った。
スマホを外して、スリープしていた画面を再起動。動画ファイルを開き、シークバーで目当ての場面を……って、あれあれ?
(……途中で切れてるっ!?)
どうやら、ひかりが現れた直後――わたしがスマホ三脚をひっくり返したのと同時に、録画が止まってしまったらしい。
つまり、わたしは決死の覚悟でウソを告白したのに……結局、誰の耳にも入らず、証拠も残っていなかったというわけだ。
な、な、な……。
「なんだよぉぉぉ」
ヘナヘナとコンクリにしゃがみこむ。
完璧に気力が萎えてしまった。もう無理。一歩も歩けないしひと言も喋れない。
その姿勢のまま、ふと視線を動かすと、きらきら光る花びらみたいなものが、窓の外に見えた。
天の川の星屑のような光の粒が潮風に乗り、海へと流されてゆく。
「わあ。なんやろう、あれ……きれいかねえ……」
ひかりもわたしも、しばし、その輝きに見とれていた。
もしかして……ハリコさんに囚われていた魂たちが、どこかに還っていこうとしているのだろうか。
そうだったらいいな、とわたしは思った。
同時にお腹がグゥと鳴った。
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