0人が本棚に入れています
本棚に追加
君の音
どこからか響いてきたピアノの音。
導かれるようにして辿り着いた放課後の音楽室で、私は君を見つけた。
窓から射し込む暖かな夕日に照らされて。
鍵盤の上を舞うように音を紡いでいく細い指。儚げにそっと伏せられた瞳。窓から入り込む風に揺れるサラサラとした黒髪。
そして何より、その音色に惹かれて……
私は息も忘れてその演奏に聞き入った。
丁寧に奏でられる旋律。
流れるように進んでいく音は途切れることなく、この空間を呑み込んでいく。
その音はまるで叫んでいるかのように、どこか悲しげで……
聴いたことのない、知らない曲なのに。
聴いているだけで胸が締め付けられる。叫びが、襲い掛かってくる。動けなかった。目を逸らすことも声を発することもできない。こんなに圧倒されたのは初めてだった。
「……なに」
不意に、音がピタリと止んだ。
想像していたよりも低く不機嫌そうな声にハッとして顔を上げれば、こちらへと真っ直ぐに向けられた瞳と目が合って。
「え、あ……」
「見世物じゃないんだけど。何か用」
その声の固さに私は小さく息を飲んだ。縋るように、体の前で抱きしめるようにしていたファイルを持つ手に力を込める。
「ご、ごめんなさい……その、すごく上手だったから……」
ピアノを弾いていた男子生徒は、私の言葉にスッと目を細めた。
嫌だった? 聴いちゃダメだったのかな?
「あ……えっと……」
彼は何も発しない。
下りた沈黙に居た堪れなくなって。
「き、綺麗だね!」
咄嗟に、頭に浮かんだ言葉を口にした。
「……は?」
「お、音が、丁寧でまとまりがあって、その、すごく……すごく、綺麗だった……!」
興奮の収まらない心臓はまだ激しく鼓動している。それくらい、彼の演奏はすごくて。
強くて、すごくて……上手く言い表せないのがもどかしい。
一度形にしてしまえば留まる所を知らない言葉たちが、次から次へと溢れていく。
「すごく強くて、心まで届いて……私、こんなに素敵な音今まで聴いたことなくて……」
「べつに」
それを止めたのもまた、彼だった。
「こんな音、綺麗なんかじゃない」
私に向けていた視線を手元の鍵盤に落として。吐き捨てるようにして紡がれた言葉。
彼の纏う空気が変わり私は口を噤んだ。
綺麗って言ったのがダメだった? いや……違う。彼は「こんな音」って今言ってた。
まるで卑下するような。そんな言い方なのが引っかかる。理由なんて会ったばかりの私には想像もつかなかった。
「なあ」
再び重なった視線。同時に発せられた声。
鍵盤から離した指で腕まくりしていた制服の袖を正してから、彼は立ち上がった。
「あんた、これ好きなわけ?」
「え……」
「だから、弾きに来たんじゃねぇの」
これ……ピアノのことだろうか。
突然な問いに戸惑いつつもコクコクと頷く。
「う、うん、そう」
「あっそ。なら俺退くから」
あっさりと楽譜をまとめ始めた彼に私は慌てた。
「い、いいよ、気にしないでまだ弾いてて」
先に来ていた彼をどかしてまで弾くなんてことできない。それに、まだ聴いていたい。
「私はまた今度で大丈夫だし、あなたもピアノが好きだからここに来てるんでしょ? それなら……」
「嫌い」
一瞬何を言われたのかわからなかった。
へ、と間抜けな声が自分の口から漏れる。彼はもう一度静かに告げた。
「それ。俺は嫌い」
それ……視線の先にはピアノ。
彼がついさっきまで弾いていたピアノ。
私は戸惑って、視線をピアノと彼の間で行ったり来たりさせた。
「嫌い、って……好きだから、弾いてたんじゃないの?」
「違うね」
「じゃあどうして……」
弾いてたの、と続けようとして止める。これ以上話すことはないとばかりに、彼が側に置いてあった鞄を掴んだから。
「占領して悪かったな」
「あ……」
短く言い残して彼はドアの方へと歩いていく。咄嗟に伸ばしかけた手を私は握り締めた。
嫌い?
「嘘だ……」
鞄に無造作に突っ込まれた楽譜。僅かに見えたそれにはビッシリとマーカーやペンで書き込みがされ、何度も捲られたのであろうと容易に想像できるほど使い込まれた証があった。さっき聴いた演奏だって、一つの曲として完璧に完成されていた。
それなのに、嫌い?
そんなわけない。嫌いな人には、そこまでできない。強制されてできるようなレベルの努力じゃないよ。
廊下へと消えていった彼の後ろ姿を思い浮かべながら、私はファイルをぎゅっと引き寄せた。それは、彼のものと比べるとまだまだ薄くて。
いつもよりも、軽く感じた。
◆◆◆
次に彼を見たのは、三日後の昼休みだった。
「……あ」
あのピアノの人だ……
窓から何気なく見下ろしたグラウンド。光の下、大勢の生徒で賑わうその中に彼の姿を見つけて。思わずじっと見つめてしまっていた。
「音羽ー?」
なに見てるの? と向かい合わせに座る友達が、机に並べたお弁当を避けるようにして身を乗り出し私の視線を追った。
「あ、進藤くんじゃん」
「進藤……くん?」
「あれ、音羽知らないの?」
意外そうに見られ首を振る。あの時の他に関わったこともないし、そもそもそれまで見かけたこともなかった。同じ学年なのは上履きの色からわかったけれど、それだけ。
そんな反応をするなんてもしかして有名な人なのかな?
「……音羽がピアノにしか興味ないのは知ってたけど、ここまで人に興味がないのは重症よ?」
「うっ」
呆れたような視線に気まずくなって目を逸らす。
人に興味がないなんて、そんなことはない……はず。たぶん。
「進藤律くんは首席で入学してきた特待生なの」
「えっ、特待生?」
「そうそう。ほら、入学式でも挨拶してたでしょ? それからずっと試験では学年トップだし、生徒会にも入ってて時期会長候補とも言われてるし。成績優秀でスポーツ万能、加えてあの容姿。何もかも完璧でしょ。クラスは隣だけど学年中、いや全校生徒が知ってるわよ」
次々と溢れてくる情報に、私はおかずを食べることも忘れてポカンと口を開けた。どうやら想像以上にすごい人だったらしい。全然知らなかった。言われてすぐに脳内で入学式、と記憶を検索してみるけれど自分でも驚くほど何も出てこない。
「本当に記憶にないのね」
「……そうみたい……」
私ってこんなに記憶力ないんだなあ……楽譜ならすぐに暗譜できるのに。
「だって、同じクラスでもないんだよ? 普段会わない人なんて覚えられないもん……」
「いやいや、もう二年の冬よ? いい加減少しは覚えてないとおかしい頃でしょ……って、あれ?」
進めようとしていた箸をわざわざ止めて、友人が顔を上げる。
「音羽は入学式の進藤くんを覚えてないのよね」
「うん全く」
「じゃあなんでさっき見てたの?」
なんで。なんで、かあ……
この間ピアノを弾いていた所を見た、とは何となく言ってはいけない気がして。つられて私も箸を止めながらうーんと考える。
「……なんとなく?」
「何で疑問系なのよ……」
再び呆れたような視線を浴びながら私は、聞いたばかりの彼のことを思い浮かべた。
三日前、音楽室でピアノを弾いていた彼。辺りを奏でる世界へと呑み込んでしまうあの演奏。
進藤律くん、か……
やっぱり全く聞き覚えのない名前だけれど、なんだか彼の雰囲気にとても合っているなと私は思った。
◆◆◆
触れた鍵盤から音が紡がれていく。
ほんの少し力を変えてみるだけで色々な表情を見せてくれる。
この感覚はいつだって心地が良い。どんなに辛く悲しい時でも、変わらずにピアノは音を奏でてくれるから。寄り添ってくれるから。側にいてくれるから。
だからピアノが好き。
最後の音までしっかり奏で、ゆっくりと鍵盤から指を離す。
ずっと弾き続けていたせいで固まった体を解すように、うーんと大きく伸びをしながら窓の外へと視線を移せば、いつもよりも暗い空が広がっているのが見えた。
「あ、またやっちゃった」
やばい、と私は身をすくめる。
ピアノを弾いてるとつい時間を忘れちゃうんだよね。気付いたら下校時間をとっくに過ぎていて見回りの先生に怒られたことも何度もある。気を付けますって言ったのに今日もギリギリだな……
帰ろうと椅子から立ち上がりかけたけれど、名残惜しく感じてもう一度座ってしまった。
幸せな時間ももう終わり。金曜日だから次学校に来るのは月曜日だし、家にはピアノがないから休日に弾くことはできなくて。
帰りたくないなあとようやく顔を上げた時。
あ、と声を漏らしたのは私か、それとも。
「あー……」
まずいと言いたげな様子で顔をしかめた彼。制服姿で鞄まで持っていて。音楽室と廊下の間で気まずそうに立ち尽くしている。
「進藤、くん……?」
私がそう呼ぶと進藤くんは小さく肩を揺らした。
「どうしてここに……あっ」
弾きに来たのかな。
それじゃあまた、あの演奏を聴けるかも?
私は嬉しくなって声を弾ませた。
「もしかしてピアノ? 弾くならここに、」
「あんたも」
譜面を片付けようと立ち上がった私は、耳に届いた進藤くんの声に中途半端に伸ばした手を止めた。
「……俺のこと知ってんだ」
あの日と同じ固い声。伏せられた瞳。
「……え?」
「名前。今呼んだろ」
名前?
一瞬何のことだろうと考えてすぐにああと思い出す。
「うん、この間友達に教えてもらったの」
「……は?」
「え?」
私の言葉に進藤くんは驚いたように目を見開いた。
「教えて、もらった?」
「う、うん」
「俺のこと知らなかったわけ? ……って、あー待って」
私が何かを答える間もなく。
今のなし、と彼は背を扉に預けたまましゃがみこんでしまった。
「何だよそれ……俺今ただのやばい奴じゃん……」
「え、ちょ、どうしたの?」
「知らないのかって、何様だよ俺……一番嫌ってるくせに自分で言ってどうすんだよ……」
「し、進藤くん……?」
戸惑いながら近付いてみるけれど何の反応も返ってこない。どうしたんだろう?
心なしか落ち込んでいるように見えるその様子に戸惑う。
「……悪い」
しばらくして顔を上げた進藤くんは、真っ先にそう口にした。
「その……完全に八つ当たりした」
八つ当たり?
「されてないよ?」
「いや、この間感じ悪くして……あーいいや気付いてないなら」
何で謝られたのかはよくわからなかったけれど、進藤くんは気の抜けたように、いいやと小さく笑った。
その表情にトクンと心臓が脈打つ。
……知りたい。
ゆっくりと口を開く。
これはきっと……きっと、ただの好奇心。
そう言い聞かせながら。
「ねえ、どうして嫌いなんて嘘をついたの?」
嘘という単語に進藤くんの瞳が揺れた。
彼の口が開いていく。否定されるような予感がして、それよりも先に私は嘘だよねともう一度口にした。
「楽譜も演奏も、嫌いでできる仕上がりじゃなかったもの」
それに、またここに来ている。嫌いな人がわざわざこんな時間まで待ってピアノを弾きに来る訳がない。
じっと視線を送っていれば、別に……と進藤くんは目を逸らした。
「俺のイメージと、違うだろ」
「違う?」
「俺には完璧しか求められてないから」
淡々と彼は続ける。まるで今までに何度もした説明を口にしているかのように。
「常に完璧じゃないといけない。皆の理想でないといけない。模範でないといけない。弱みを見せてはいけない。自分を出してはいけない」
ずっとそう言われ続けてきたから、と。
彼は自嘲するような笑みを浮かべていた。
「ピアノは【進藤律】にとって、不要な要素なんだ」
誰にも見せず、彼が長年一人で隠し持っていたもの。過去も、そしてこれからも。決して表に出されることのないもの。
黙り込んでいると、彼は私を見て僅かに目を見張った。
「なんでお前がそんな顔してんだよ」
だって……
私はグッと唇を引き結んだ。
だって、そんなのひどい。
自分を出しちゃダメなんて。
自分の好きなものを好きと言えないなんて。
そんなの辛すぎるよ。
そこまでして完璧でないといけない理由が、わからない。
「この話、忘れろよ? もともと誰にも話す気なかったし……っていうか何で俺話してんだろ」
膝に手を当てて立ち上がった進藤くん。
そのまま慎重にピアノの前へと足を進めると、そっと鍵盤に指を触れさせている。その表情は、この間教室から見かけた時よりも柔らかくなっている気がして。学校でも家庭でも、いつも完璧を演じているんだろうなと簡単に想像がついて。
『何もかも完璧でしょ』
彼の名前を教えてくれた友達が言っていた言葉を思い出す。
首席の特待生。学年トップ。次期生徒会長候補。成績優秀。スポーツ万能。整った容姿。
彼を表すのに使われるそれはどれも、飾りでしかないんだ。完璧の下に隠された彼自身は表に出ることなく押し殺されて。誰にも見つけてもらえない。見つけてもらうことを許されていない。
だから彼の演奏は。彼の音は。
「……進藤くん」
あんなにも叫んでいたんだ。
「ピアノ、また弾いてくれない?」
振り返った彼の瞳が揺れる。
私はそれを真っ直ぐに見つめた。
「もっと聴きたいの。あれからずっと忘れられなくて。本当にすごかったから」
これは本音。
進藤くんのピアノが好きで、聴きたい。
私の心からの言葉。
だけどそれだけじゃない。まだ知り合って間もないのに打ち明けてくれた。彼のことを教えてくれた。じゃあ、その分を返すために私ができることは。
「また来てよ」
彼が彼でいられる時間が、少しでも長くなるように。
皆の期待を背負い努力している彼にとってこの時間が、心休まる特別な時になるように。
ピアノがその理由になってくれればいい、と彼の顔を覗き込んで笑いかける。進藤くんは戸惑ったように私を見つめ返した。
「いい、のかよ。俺が来たらお前が弾く時間が減るだろ」
「そんなのいいよ」
聴きたい。彼の音を聴きたい。
「一緒に弾こう!」
そう言って手を差し出せば、彼は目を見開いて。それから。
「……ああ」
ふっと柔らかく笑って、私の手を握った。
◆◆◆
今日も明日も。音は響き渡る。
泣いていた音は優しい旋律へと変わり。小さな幸せを見つける。
もう大丈夫。
いつの日か、光のもとで奏でられる日も来るのかもしれない。その時はきっと……
ねえ。
君の音を聞かせて。
最初のコメントを投稿しよう!