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男が紙幣を少女に差し出す。
「どうだい、これからなにかうまい物でも食いに行くかい?」
男が甘い声で誘うあいだ、少女は渡された紙幣をまじまじと見つめていた。
「どうした?」男が辛抱強く聞く。
「これだけ?」
最初は彼女がなにを言っているのかわからなかった。だがそれが金額のことだと気付き、男の口元が神経質に歪む。
「おじちゃんたちと一緒に来れば、もっとお金がもらえるよ」
(ただし金を受けとるのはおれたちがな、このスベタ)男は思った。
おおよそ家出娘かなにかだろう、小遣いが底をついて路頭に迷ったといったところか。
男は少女の肩へと手をのばした。
「だからおじちゃんたちと――」
「そう、けちけちするな」
男の言葉をさえぎるように少女が顔をあげる。
そこに先ほどまでの泣いて怖気づいた様子は微塵もなく、瞳には獰猛な輝きすら宿っていた。
不意の衝撃とともに鈍痛を感じた男が下を向く。見ると、少女の前蹴りが股間に突き刺さっていた。
やせっぽちの足からは想像もつかないような蹴りの鋭さに、ふっと男の意識が遠のく。
男が崩れ落ちるわずかな隙を突いて財布と、彼女に渡そうと握りしめていた紙幣まで奪い取ると、少女は相手の背中を踏み台代わりに高く跳んだ。
空中で建物の壁を蹴り、張り巡らされたスチームパイプやダクトへ次々と足をかけ、取り付けられた室外機の上に飛び乗る。
離れ業とさえ言える身軽さで、少女は地面からはるか五メートル以上の高さまで一気にのぼりつめていた。
「てめぇ!」
「なめてんのか!」
男に駆け寄ったヤクザたちが少女に向かって口々に叫ぶ。しかし安全圏にいる彼女にとっては犬に吠えられているようなものだった。
「そう怒るな」少女はそう言うと、別れでも告げるように財布をひらひらと弄んだ。「なに、毎日安心して暮らせる家賃だと思えば安いもんだろう」
下界ではヤクザたちが男を案じたり、聞くに堪えない怒号を飛ばしたりしている。
その喧騒をよそに、少女はふたたび豹のような身軽さでビルの屋上へと消えていった。
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