走り出す

1/1
前へ
/1ページ
次へ
美しいものとともに生きてきた人だけが美しく死ぬことができる 岡倉天心 (美術評論家,美術史家,詩人,教育家) *********  周り一面が霧に囲まれている。ほんの三メートル先すらはっきりと見えない。まるで煙突から出ている煙が地上に落ちてきたのではないかと錯覚する。足元の地面も灰色ぽいタイルだし、ここには全く色という色がない。唯一、色があるとしたら、上空に見える太陽だ。霧に覆われているが、淡いオレンジ色の光がふっくらと輝いている。  私はこの光景を何度も見た気がする。でもこの場所がどこなのか思い出せない。しかし意外と恐怖心はない。安心感すらあった。  私の目の前に男の子が現れた。私はこの男の子を知っている。知っているどころではない。この男の子の姿は、子供の頃の私にそっくりだった。  「やあ、久しぶり」と男の子は私に向かって言った。男の子の表情は穏やかだった。  「君は誰だい?」と私は訊ねてみた。  「僕は君だとも言えるし、君ではないとも言える」。にっこりと微笑みながら男の子は答えた。  「それはどういう意味?」  「僕は君の一部であり、また神様の一部でもある。僕は君の魂だよ」  「私の魂?」  「僕だけでなく、この空間全てが君の魂だよ」  私は周りを360度ぐるりを見渡した。やはり霧に覆われている何も無い空間に思えた。    私がキョロキョロ見渡している間も、私の魂と言っている男の子は話を続ける。  不思議なことだが、私は男の子の言葉を素直に信じれた。自分の中にスッと言葉が入り込み、納得できる。  「君の意識が、僕の魂の場所に来ているということは、君は今、臨死状態にある」  男の子の表情は真剣だった。  「臨死状態、私が?どうして?」  男の子が言っていることは納得できるけど、どうして私が臨死体験をしているのか分からなかった。  「ちょっとイレギュラーな事が起こったんだ。うーん、どこから話せば分かりやすいかな?」。男の子は腕を組んでしばらくの間考える。そして私に質問した。「ところで君はどこまで憶えているの?臨死状態の理由を」  私は考えてみた、臨死状態の理由を。私はここに来る前、何をしていたのだろうか?自分の中の一番新しい記憶を探る。確か私は自分の勤める役場に行くため、最寄りの駅に向かって歩いていたはず。  「君は自分から道路に飛び出し車に轢かれたのさ」と男の子は、さらり言う。  「私が?どうしてそんなこと」  私にはそんな記憶が無い。男の子が嘘を言っていないのは分かるが、自分がそんなことをするとも思えなかった。    「どうやら轢かれたとき頭を打ったみたいだね。その瞬間の記憶が無くなっている。でも心配しないで。これから君には走馬灯を見てもらうから。その走馬灯を見終わったとき、君には二つの選択肢のうち、どちらか一つを選んでもらうよ」  「二つの選択肢?」  「このまま死んで生まれ変わって来世に行くか?それとも生き返って現世に戻るか?」  「どういうことだ?」と私は訊き返す。  「君の人生の中で、今の臨死状態はイレギュラーな出来事なんだ。本当なら君は八十四歳まで生きる。でも今の君は四十六歳。だから走馬灯を見てもらったあとで、四十六歳で死んで次の人生をやるか?それとも生き返って八十四歳まで生きるか?どちらかに決めてもらうよ」  私は、そんな重大な二択を私本人が決めていいのか?と思いながらも、私は男の子にフッと思ったことを質問する。  「次の人生、私はどんな人間に生まれ変われるのか分かるのか?それを私に教えてもらえるのか?」  男の子は不思議そうな顔をする。  「何を言ってるの?君は君のままだよ。同じ時に、同じ場所で、同じ人間として生まれ変わるだけだよ。現世の四十二回目の君に戻るか?それとも来世の四十三回目の君に進むか?どちらかだよ」  「現世が四十二回目?来世が四十三回目?」。私は驚く。  「そうだよ。何度でも何度でも、君は君の人生を繰り返すんだ」  「繰り返す?あの、つまらない人生を?何のために」。私は声を上げる。  「もちろん、この空間を美しく創り上げるためだよ。魂を美しくすること、それが君の喜びでもあり、神様の喜びでもあるんだ」  男の子はニッコリと微笑む。  男の子は魂を美しくする仕組みについて語りだした。  「僕がいるこの空間と君の心は繋がっている。長い長い電線のようなもので魂と心は繋がっている。心で感じた感情は、電線に乗って魂までやってくる。ここまで来るまでには、感情はだいぶ薄らぐけど、でも確実にやってくる。何度も何度も人生を繰り返すことで、少しずつ魂に感情を蓄積させる。その感情を使って、その人らしい空間を創るのさ」  男の子は、ここまで言い終えると、ため息を吐いた。  「でも、ここ最近十回の君の人生、まったく同じことを繰り返すだけの人生なんだよ。さっき君は、つまらない人生、と言っていたけど、人生がつまらないんじゃなくて、君がつまらないんだよ」  私は男の子の言葉を聞いて、自分の息子のことを思い出した。  私には二十一歳の息子がいる。大学生だが一年間留年して外国を旅している。私は反対していた。すると、「親父みたいにつまらない人生は送りたくない」と息子は言いやがった。私はお金の援助しなかった。息子はバイトして、自分でお金を貯め旅に出た。    「人生、何かしないといけないのかよ。別に何もしない人生でもいいじゃないか」  私は男の子に向かって強い口調で反論した。  「そうだね、何もしない人生でも心が充実していれば、それもありだと思う。でも君の場合は違うだろ。だって魂に何の感情も送られてこないんだもん。充実してるなら充実感が送られてくるはずだ」  男の子は私とは違い、冷静に言った。  私は言い返せないでいた。私は自分が臨死状態になった理由を思い返す。自分から道路に飛び出した、と言われたけど、あながちあり得ない話でもないのかもしれない。  「じゃあ、そろそろ走馬灯を見てもらうよ」と男の子は私に言う。  私は男の子の言葉が頭の中に入ってこなかった。私は、自分で自分の命を絶ってしまったのか?と、そればかり考えていた。  「まずは、君が憧れている人だよ」  男の子がそう言うと、私の目の前に映像が出現した。    それはVRの映像のように立体的で、今この場所で現実的に起きているようだった。そしてその映像には、私と私の二人の友人が現れていた。  その友人は佐々木司と戸田健一郎。    佐々木と戸田は小学生のときから知っているが、仲が良くなったのは中学生に上がってからだ。私たちは同じクラスにだった。そして戸田が私と佐々木をバスケ部に誘った。  戸田はノリが良くて誰とでも仲良くなる。どの部活に入部するか迷っていた私と佐々木をバスケ部に引っ張り込んだ。ちなみに戸田がバスケ部を選んだ理由は、好きとか得意とかじゃなく、モテそうだから、という理由だった。    中学時代、戸田は彼女ができると途中でバスケ部を辞めた。戸田が言い出しっぺなのに。私と佐々木はバスケ部を三年間続けた。佐々木は三年のときキャプテンになった。佐々木は一人でも練習する奴だった。私は佐々木ほど努力できず、それなりの選手止まりだった。  この三人は高校も同じだった。  戸田は私と佐々木を誘って、軽音同好会を作った。たぶんモテたいからという理由だろう。佐々木はバスケ部に入部したけど、時折、軽音同好会に顔を覗かせていた。私はバスケ部には入部しなかった。佐々木ほどバスケに打ち込めないし、例え練習しても佐々木より上手くなれるとも思えなかったからだ。  戸田は今度は軽音同好会は辞めなかった。辞めなかったけど、真面目にやっていたのは学園祭の前だけだった。戸田はギターを、佐々木はドラムを、私はベースを担当していた。佐々木はバスケ部をやっているにもかかわらず、ドラムの演奏技術は戸田や私と遜色なかった。  佐々木は、夏休みや冬休み、土曜日曜など、バスケ部の練習後、一人でドラムの練習をしていたらしい。もちろん私と戸田は休みの日まで学校に行ったりしない。  私は佐々木に訊いたことがある。なんでそんなにストイックなの?って。佐々木は笑いながら答えた。別にストイックじゃないよ、ただ上達するのが面白いだけだよ、と。    佐々木は勉強も良かった。私も勉強はできたほうだ。私は唯一勉強で佐々木に勝っていた。しかし佐々木は三年になり部活を引退すると、みるみると成績を上げた。結局、高校最後のテストで私は抜かされた。ちなみに高校になって、戸田が勉強しているところを私は見たことがない。  私たち三人は高校卒業後、別々の道を進んだが定期的に会っていた。それはずっと続いている。  男の子が見せてくれた映像は、佐々木が舞台の壇上に立って講演している姿だった。その光景は、十年ほど前の出来事だった。  佐々木は三十五歳のときには起業家として成功していた。    佐々木は高校を卒業すると、大学に進学せず美容院の専門学校に行った。佐々木の実家は美容室をしていた。  私は佐々木の進路を聞いたとき、マジでこいつは頭がおかしい、と思ったのを覚えている。だって、美容師を目指す奴が、高校の勉強を頑張っても意味がない。なのにあいつは高校最後のテストで私を抜いた。感心するより、私は呆れた。  佐々木は三十歳のとき自分の店を持ち、それからはあれよあれよと店を増やし多店舗経営し、そして五年後にはエステやブライダルなどの他業種にも進出していた。  私の地元ではそれなりに有名で、商工会議所の主催で佐々木の講演会が開催された。その講演会に私は戸田と一緒に行ったのだった。    佐々木が壇上でスポットライトに浴びて輝いている。  「なりたい自分をリアルに思い浮かべることができるなら、それは叶います。そのことを考えるだけでワクワクするし、それに向かって夢中になれる。だから思考は現実化します」  佐々木は講演の最後にこの言葉で締めくくった。  周りの客席では拍手が鳴り続く。隣に座っていた戸田も拍手をし、子供がヒーロー番組を見るように、目を輝かせている。しかし私は羨ましいと思う反面、冷めていた。  私は、佐々木のトコトンやる姿勢を何度も見てきた。同じようなことができるのは、この講演を聞きに来ている中でもごく僅かな人だけだろう。私もできないし、私の隣にいる戸田にも多分できない。  これが講演会を聞いた、当時の私の感想だった。  ここで走馬灯の映像が消えた。また辺りが霧が充満する。  「どうだった?」と男の子は私に訊いた。  「佐々木だからできること」と私は無気力に答えた。  「そうだね。なんたって佐々木君は七十七回目の人生だからね」  「七十七回?」。私は驚く。  「そうだよ、七十七回目。何回も何回も繰り返す人生の中で、佐々木君は魂に感情を蓄積していったんだ。前世の記憶は消えてしまうけど、感情だけは前世から受け継ぎ、魂にずっと蓄積されていく。そして魂に蓄積された感情は逆方向にも伝達する。魂の感情が心に共鳴する。ワクワクする気持ちが継続するから、前世で出来たことは、現世でも出来る」    私は男の子の言っていることを頭の中で整理する。  っということは、佐々木がストイックな性格だからではなく、ただ魂から送られる感情のおかげで、夢中でやっていたということか?  「そんなの卑怯じゃないか」と私は訴えた。  「なにが?」。男の子はキョトンとした表情で言う。  「だって、そうだろ?魂のおかげでワクワクが継続するんだろ?佐々木ばかり得じゃないか」    男の子は首を傾げ両手を広げ、ヤレヤレという表情をした。そして私に言った。  「さっきも言ったように、佐々木君は七十七回目の人生。その七十七回の間、常に感情を魂に蓄積してきたんだ。言い換えるなら、前世より少しだけ良くなるように現世を生き、そしてそれを来世に託す。これを何回も繰り返したから今があるんだ。それに比べて君は、三十二回目の人生から、今の四十二回目の人生まで、全く同じの人生を繰り返すだけ。これじゃあ、魂に感情が一向に送られて来やしない」  男の子は大きくため息を吐く。  私は何も言い返せなかった。三十二回目から四十一回目の人生がどうだったのかは記憶が無いから分からないが、確かに今回の四十二回目の人生を思い返せば、感情の蓄積はほぼされてないだろう。  「まあ、今ここで、こんなことを言っても始まらないか」と言い、男の子はニコリと微笑む。「ところで、佐々木君の魂にお邪魔したいと思わない?」  「お邪魔する?」と私は訊き返す。  「うん。佐々木君の魂の空間を見てみない?」  「そんなこともできるのか?」  「始めに説明したけど神様を中心に魂は全ては繋がってる。だから、ちょっとぐらいならお邪魔しても大丈夫さ」  私の魂と佐々木の魂の違いが気になった。この霧だらけの空間とどう違うのか?確かめてみたいと純粋に思った。  私は男の子に向かって頷いた。「佐々木の魂が見てみたい」と言って。  男の子は「OK、じゃあ行くよ」と言って、指をパチンと鳴らした。  景色が一瞬で変わった。  私の目の前には断崖絶壁の崖がそびえ立っていた。崖の頂上は空に届きそうなほど伸びていて、ずっと見ていると首を痛めてしまいそうなくらいだ。そしてその頂上から真下まで、絹みたいに白くて美しい滝が勢いよく流れ落ちていた。その迫力に圧倒される。  私は滝に圧倒されつつも眺めていると、滝の中腹あたりで金色の物体を確認した。それは旗が風になびくように揺らめき、揺らめくたびに反射板が光を反射するように、金色の光がキラキラ光る。よくよく注意深く観察すると、それは魚だった。  「あれは鯉だよ」と、隣にいた男の子は私に教えてくれた。  「鯉、あれが?」。私は驚いた。滝の中腹にいるのもそうだが、ここからの距離と金色の揺らめく大きさからしたら、二メートルくらいの大きさはありそうだ。その巨大な魚が、滝を登って泳げるわけない。  「ここは現実世界ではないよ。君は臨死状態っていうことをお忘れなく」  男の子は呆れるような口調で私に注意した。  そうだった私は臨死体験をしている最中だっだ。男の子に注意され、改めて気づかされた。  「どうだい、僕の魂は?」    私の後方から男性の声がした。振り返ると、そこには佐々木がいた。佐々木も臨死状態?と私は仰天した。  「それは佐々木君の魂だよ。僕と同じような存在」  男の子は小声で私に説明してくれた。  「あれは鯉の滝登りだよ」と佐々木は金色の鯉を指さして言った。  鯉の滝登り、という言葉を聞いたことがある。確か、滝を登り切った鯉は龍になり、空に飛んで行くという言い伝えがある。  佐々木の魂、滝の迫力といい、鯉の滝登りといい、佐々木そのものを表していると思った。  私は佐々木の魂に訊いた。  「このまま滝を登り切れるのか?」  「さあ、どうかな?二十回ほどの人生であそこまで登ったけど、この先はどうなるかは僕にも分からない」と佐々木は答えた。  「二十回?」  「うん。少しずつ少しずつ登って行ってるんだ」  「大変そうだな?」  「大変?そんなことないよ。すごく楽しそうだよ」  楽しいそう?私はもう一度、滝の中腹にいる鯉を見上げた。滝の流れに逆らいながら必死に泳いでいるように見える。決して楽しそうに泳いでいるようには思えなかった。  「それに僕は、滝を登って龍になってもいいし、力尽きたら滝つぼに戻ってきてもいいと思ってるんだ」  佐々木の魂は平然と言った。  その言葉を聞いて私は不快になった。私が佐々木の魂なら龍になってもらいたいし応援する。「魂のくせに佐々木の成功を望まないのか?」と私は強い口調で訊いた。    「僕は成功してもらいたいんじゃない。楽しんでほしいだけさ」  佐々木の魂はそう言うと指をパチンと鳴らした。  指の音と同時に滝の流れが止まった。鯉も滝の中腹で止まっている。まるで時間を止めてしまったみたいに。  「滝つぼを見てみて」と佐々木の魂は言う。  さっきまで滝つぼには大量の水が叩きつけられ、水しぶきが舞っていた。それが滝の流れが止まったことで水しぶきは消え、滝つぼの水面も波打っていたのが次第に弱くなった。そして滝が流れているときには見えなかった滝つぼの奥底が覗いて見えるようになった。滝つぼの奥底にあったのはドラムだった。  「君も知ってるだろ?三年の時の学園祭。そのときは成功したかい?」  佐々木の魂は私に訊いた。  私も鮮明に覚えている。それどころか、佐々木と戸田と私、三人が揃うとその話で盛り上がることが多々あった。    三年の時の学園祭、私たちは好きなロックバンドのコピーバンドをした。戸田がギター、佐々木がドラム、私がベース。私たち以外にボーカルとキーボードの二人を加えて。  私たちの演奏は、かなり盛り上がった。しかし戸田が間奏のソロパートで自分で勝手にアレンジした曲を弾きだした。戸田は完全にテンションがハイになり、気持ち良さそうにギターを弾いていた。そしてそれに続いたのがキーボード。キーボードの奴もギターに合わせて即興で演奏しだした。そして佐々木もドラムを滅茶苦茶に叩き出した。私はただ眺めていた。でも、しばらくしてボーカルの奴がキレた。せっかくさっきまできちんと演奏できていたのに、と。ボーカルの奴と戸田は取っ組み合いの喧嘩になった。二人は近くにいた先生の取り押さえられ喧嘩は治まったが、このときが、この年の学園祭で一番盛り上がったそうだ。  私はただ眺めていたからよく見えた。戸田は目を瞑って気持ち良さそうにギターを弾いていたのがキモかった。佐々木はドラムを力いっぱい滅茶苦茶に叩いていた。もうドラムが壊れてしまうんじゃないかと思えた。私はちょっと佐々木の意外性を見た。きちんとやり遂げることが佐々木の性格だと思っていたので。  佐々木の魂はまた指をパチンと鳴らす。滝が再び流れ出す。水しぶきが舞い、水面は大きく波打つ。奥底にあったドラムはまた見えなくなった。  「成功するのが楽しいのなら成功するように頑張ればいいけど、別に成功しなくても楽しいことはある。本人も心の奥底では知ってるんだ。仲間と盛り上がるのも楽しかった、と」  佐々木の魂は言った。表情がちょっと寂しそうにも見えた。  佐々木の魂から私たちは帰ることにした。私の魂は「お邪魔させくれて、ありがとう」と佐々木の魂に言った。  男の子は指をパチンと鳴らした。また霧だらけの世界に戻ってきた。  「どうだった?佐々木君の魂は」と男の子は私に感想を求めてきた。  「どうだった、て言われても…。凄かったよ。迫力もあった」  「佐々木君の魂を見て、羨ましいと思わなかった?」  「羨ましいとは思うけど、だからと言って自分も同じことができるとは思えない。例えあと何回人生を繰り返そうとも」  私は素直な感想を言った。すると男の子は首を折り曲げ落胆していた。  「じゃあ、走馬灯の続きを見よう」と男の子は弱々しい口調で言った。すると、また私の前に映像が流れだす。私と佐々木と戸田の三人が映し出された。  「今日の講演会の話、面白かったよ」と戸田は佐々木に言った。  「本当?でも、なんか照れるな。人前で偉そうなこと言ってしまって」と言い、佐々木は頭を掻く。  「いいじゃん。お前凄いじゃん」と戸田は佐々木の肩を何度か叩いた。「ところで、講演会で言ってたやつ、あれマジなやつ?」と戸田は佐々木に訊く。  「どの話?」と佐々木は訊き返す。  「なりたい自分を思い浮かべるだけで、そうなれるっていうやつ」  「ああ、それね。昔から言われてるやつだよ。思考は現実化するって」  これは佐々木の講演会が終わり、そのあとで三人で居酒屋に行ってときの会話だ。  私はこの光景を見て、どのときの走馬灯なのか理解した。    佐々木は戸田に、思考は現実化する、について説明した。  「もう実現してるかのように理想の自分を思い浮かべる。するとワクワクする感情が湧き起こる。そのワクワクが理想の自分を現実化してくれるのさ」  「へー、そうなのか」と戸田は感心する。  映像の中の私は、戸田に忠告していた。「佐々木の真似をしても無駄だ。佐々木だからできることだぞ」と。  「横山、そんなことない。誰にだってできるさ」と佐々木は言う。  「いつもクールぶるよな、お前は」と戸田は私に言った。  私は二人から責められたので、このあと変に否定はしなかった。  でもこの光景を改めて見せらされ、あのときもっと戸田に忠告しておけば良かったと後悔した。  戸田はこの講演会のときまでは、ライブハウスを一件だけ運営する経営者だった。  戸田は高校を卒業をすると大学に行った。もちろん高校時代に勉強なんて一切してないので、行った大学は無名の三流大学だった。    戸田は大学生になっても、やはり勉強もせずサークルで遊んでいたみたいだ。そして大学を卒業すると、俺はギタリストになる、と言ってプロを目指しだした。三十歳までロックバンドを組んで活動していたみたいだけど、結局はそんなに売れず解散した。    解散後、戸田は知り合いの人からライブハウスを譲渡してもらい経営者になった。  戸田のロックバンド時代にライブハウスのオーナーに気に入られていたらしい。そのオーナーが高齢だったため、引退時に戸田はライブハウスを譲り受けた。  戸田のライブハウスは順調な運営をしていた。  戸田は、どこに行っても人から好かれるという才能を発揮していた。戸田は楽しいことしかしないというポリシーなので、それにつられて周りの人も楽しくなるのだろう。だから、戸田の周りに自然と人が集まる。  しかし順調だったのは、この佐々木の講演会を聞く前までだった。佐々木の話を聞いた戸田は、事業を拡大しだした。しかもライブハウスでなく、他業種のバーや飲食店まで手を出した。  二、三店舗までは上手くいっていた。戸田の人柄に人も付いてきたのだろう。しかし店舗が増えるば増えるほど、戸田の求心力も弱くなり、事業は次第に悪化するようになった。    結局、五年ほど前、戸田の会社は無理に事業を大きくしたせいで倒産した。戸田は今、佐々木の会社で雇われている。ブライダルの営業として働いていた。    「戸田君の魂にもお邪魔しないかい?」と魂である男の子は言った。  私は佐々木の魂ほどでもないが、戸田の魂にも興味があった。事業の失敗でかなり魂も暗いものになっているのではないかと不安がよぎる。私は男の子に向かって頭を縦に振り頷いた。  「じゃあ行くよ」と言って、男の子は指をパチンと鳴らした。  またしても景色が一瞬で変わった。濃い霧の色のない空間から、目を突かれるほどのビビットカラーの空間が現れた。色が眩しいと感じて驚いた。  鮮やかな色に目が慣れるまでに少しの時間が掛った。じっくり周りをみると、そのビビットカラーの空間には何やら変な造形物が飾られていた。  その造形物はオモチャのブロックみたいな物で作られていた。おもちゃのブロックといっても一つのブロックの大きさが、消しゴムほどの大きさだった。  造形物の中にはバスケットボールがあった。しかし完成には程遠く、三分の一ほどしか形を成してなかった。その他にもいろいろある。スケートボードやサーフボード、ゴルフのクラブやテニスのラケット、全てが途中で作るのを止めてしまった中途半端な形で放置されていた。  私は放置された造形物を一つ一つ確認するように見て回った。造形物の全てが、飽きやすい戸田を表しているように感じた。  「どうだい、俺の魂は?」  私は声のする方に顔を向けた。そこには戸田の姿があった。きっとこの戸田の姿をしているのも戸田の魂なのだろう。  「いろんなものがあるけど、完成しているものがないな」と私は戸田に言った。  私の言葉を聞いた戸田は落ち込む。そして「だよな。まいっちゃうよ」と言った。  戸田の魂は、周りにある中途半端のブロックに触った。。  「健一郎はすぐに頭の感情のほうに支配されるからな」と戸田の魂は言う。健一郎とは戸田のことだ。  「頭の感情?支配?」と私は訊き返す。  「感情には、頭の感情と心の感情、二種類あるのは知ってるだろ?」  私は首を横に振る。「いいや、知らない」と答えた。  戸田の魂は、俺の魂である男の子のほうに視線を向けた。  「まだ説明してないや」と言って、男の子は誤魔化すように舌を出す。  戸田の魂はため息を吐く。  「仕方ないな、俺から説明してやるか。感情によってこの魂の空間が作れれてるのは知ってるのか?」と戸田は私に訊く。  私は頷く。それは男の子から聞いていた。  「感情によって魂の空間が作られるけど、でも魂まで届く感情は、心の感情だけだ。頭の感情は魂には伝わってこない。頭の感情というのは、自我の感情。モテたいだとか、人気者になりたいだとか、金が欲しいだとか、そういう欲が自我の感情だな」  私は考える。それ以外の感情というのが分からない。心の感情とは何を指しているのか?訊いてみた。  「心の感情というのは、自我を超えたときに得られる感情だよ。何かに没頭しているときに無我夢中という言葉を使うだろ?自我を忘れて夢中になったときに得られる達成感とかが心の感情だ」  私は納得し頷く。  「その他にも、愛も心の感情だよ。自分のことよりも他の人のことを想っているときの幸福感、これも自我を超える感情だよ。こういう自我を超える感情が心の感情で、その感情は魂まで伝わってくる」  私は戸田の話を聞き終わると、周りを見渡す。「じゃあ、この空間が中途半端になっている原因は?」と訊く。  「そう、健一郎はすぐに頭の感情に支配される。こうすればモテそう、とか、すぐカッコつけてしまう癖がある」。戸田はうな垂れる。そして意気消沈しながら説明を続けた。「頭の感情に支配されると、せっかく魂から心に送った感情は紛れて分からなくなる。それだけ頭の感情は強力で、心の感情を繊細だということだ」  私は理解しきれないでいた。もう一度説明してくれるように戸田に頼んでみた。  「だから人間の頭の感情は、日常のほんの少しのことで入れ替わる。せっかく魂から心に感情を送っても、頭の感情が邪魔して心の感情に気づけず、誤った判断をする」  私は戸田の説明を聞いて不服に感じた。人生、良いことばかりでないし、いろんな出来事が勝手に起きる。感情だっていろいろ入れ替わるし、それをどうにかこうにか押さえつけながら生活しなければいけない。誤った判断、って言われても……。    「じゃあ、どうすれば良かったんだ?」  私は戸田に代わって、戸田の魂に訊いた。  戸田の魂は少し考えこむ。そして答えた。  「そうだな。心の声に耳を傾けることだな」  「心の声に耳を傾ける?」と私は訊き返す。  「そう。毎日、自分の心と向き合う時間を作ることが大切だ。ところで横山は、心と向き合う時間を作ったことがあるか?」と戸田の魂は、私に問いかけた。  「いいや、ない」と私は首を横に振る。  「時間を作って、静かな場所で自分の心と向き合え。今、自分の心がどんな状態か観察しろ。無理に落ち着かせようとするのではなく観察するだけでいい。そして観察できたら問いかけろ。本当は自分が何をしたいのか?と。これも問いかけるだけでいい。答えを出そうとするな。答えを探さなくてもいい。毎日、これを繰り返していれば、きっと必要なタイミングで必要な答えが現れる。答えを出すのではなく、答えが現れる。頭で考えるのではなく、心で感じろ」  「毎日やるのか?」と私は訊いた。  「毎日だ。繊細な心の感情との対話を怠るな。怠ると、頭の感情に支配される」    戸田はそう言いながら周りを見渡す。途中のままのブロックの造形物を眺める。「が、しかし」と突然に戸田は声を張り上げた。「いろいろ回り道もしたが、そろそろ完成しそうな物がある」  戸田はそういうと指を指した。その先の奥に何かが立っていた。  戸田はそこまで、私たちを連れて行った。そこに立っていたのは、ブロックで作られたギターだった。ギターは、あと少しで完成するところまで来ていた。  「六十五回の人生で、ようやくここまで作れた」と戸田は言った。  「六十五回?」と私は驚く  私は確か四十二回目の人生だ。私より戸田のほうが人生の回数が多いのか?なぜだ?戸田は一回倒産していて人生失敗しいてる。私は一度も失敗してないのに。  「失敗しないよね。何も挑戦しなければ」と男の子は私だけに聞こえるように言った。「それに成功とか、失敗とか、魂には関係ない。自分らしい生き方が出来てるかどうかの方が大切なんだ」    自分の考えていることを読まれたことに驚いた。心臓が止まるかと思った。いや、今は臨死体験中だから、実際の私の心臓はすでに止まっているのだが。  「いろいろ遠回りもしてきたが、いや遠回りしてきたからこそ健一郎も気づけた。俺は音楽が好きだ。ギターが好きだってことに」。戸田はブロックを一つ取り出し、さきほどのギターに加えた。完成は目の前だ。「事業も失敗したおかげで、ギターを演奏する時間も作れた。結果オーライだな」  戸田の魂は嬉しそうにそう言った。  俺と男の子は、戸田の魂に礼を言い、戸田の魂の空間から私の魂へ空間へ帰ってきた。霧だらけの色のない空間だ。8Kスーパーハイビジョンテレビと白黒テレビくらいの違いだ。  「どうだった?戸田君の魂は」と男の子は言う。  「カラフル過ぎて目が痛くなった」  「君の魂とは全然違うね」。男の子はそう言いながら霧の空間を見渡す。「戸田君は佐々木君に憧れて真似をした」  「だから失敗した。初めから真似しなければ良かったのに」と私は返した。  「確かに戸田君の魂も、遠回りした、と言っていたけど、その遠回りだって無駄ではないと僕は思うよ」  「遠回りは無駄だろ。一直線に正解を目指したほうがいいに決まっている」  「一直線に正解を目指そうとするから、結局一歩も動けない」  「どういうことだよ」  「戸田君は、愛は心の感情って言ってたよね」  「ああ」  「じゃあ、会った瞬間に、この人が愛する人だ、と分かる?そんなの分かる人は稀だよね。いきなり正解を当てるなんて無理なんだ」  「じゃあ、どうすればいいんだ」  「君もそうだっただろ?いろんな人と出会い、恋をする中で愛する人を見つける。戸田君は頭の感情は良くない、みたいなことを言っていたけど、僕はそうは思わない。確かに頭の感情にずっと支配されるのは駄目だけど、でも最初は頭の感情で動けばいいんだよ。例えそれが間違っていてもいいじゃないか。失敗してもいいじゃないか。人生は何回も繰り返されてる。だから、いつから始めても良いし、何度でもやり直せる」  男の子は周りを見渡し「この空間が霧に囲まれているのは、君の中にモヤモヤした気持ちがあるからだろ?」と言ってきた。  「モヤモヤした気持ち?そんなの感じたことは無い」と私は言った。  「いや、君はいつも感情を隠そうとする。出てしまった感情を抑えつけようとする。そういう変な癖がついてしまい、自分でも自分の感情に気づけてないだけさ」  私は確かに感情的ではない。それは私の性格だと思っていた。    男の子は「じゃあ次の、走馬灯を見てみよう」と言った。そして映し出された映像は、私の子供の頃の映像だった。そして私の父親がいた。  「ちょっと待ってくれ」。私は男の子に映像を止めるように言った。  私の両親は、私が小学校に上がる前に離婚した。原因は父親にあった。その父親との記憶を見るのは、私は嫌だった。私は男の子に「見たくない」と訴えたが、男の子は「走馬灯にスキップ機能なんてないよ」と言い、走馬灯の映像は流れ続けた。  「和義、こっちおいで」  父親が三歳くらいの私を呼ぶ。私が父親の元に行くと、父親は私を抱え持ち上げた。そして頭より高く上げ、私を自分の肩に乗せた。三歳くらいの私は、父親の肩の上ではしゃいでいた。  映像が切り替わった。  父親が仕事から帰ってきた。リビングのソファに深く腰掛ける。三歳くらいの私は遊んでもらいたくて、父親の膝元に飛びつく。  「あっちに行ってろ」  父親は私が飛びついた脚を引いた。見るからに鬱陶しいという表情で、私を邪険に突き放す。  映像が変わる。私が四、五歳になっていた。    父親が私の名前を呼ぶ。子供の私は父の元に駆けつける。父は後ろから大きな紙袋を私に渡した。紙袋の中には、包装された大きな箱が入っていた。私は慌ててバリバリと包装を剥がす。箱の中身はおもちゃのブロックだった。  映像が変わり、四、五歳の私はブロックを作っていた。  ブロックで宇宙船を作った。子供の私は、自分で作った宇宙船を誇らしげに眺めていた。父親が帰ってきたら見せようとウキウキしている。褒めてもらえると思って。  父親が仕事から帰ってきた。父親は片付いてない部屋を見て、怒り出した。  「おもちゃ、片付けないなら捨てるぞ」と言いながら、子供の私が作った宇宙船を蹴とばした。宇宙船はバラバラになった。  私は走馬灯の父親の姿を見て、腹立たしい気持ちでいっぱいになる。    私の父親は感情の起伏が激しい人だった。母親も父の顔色を窺いながら生活していたし、私も物心つくころには母と同じような行動をしないといけないと思うようになっていた。  「じゃあ、お父さんの魂にもお邪魔してみよう」と言って、男の子は指をパチンと鳴らす。    私が止める隙も無く、周りの景色が変わった。霧だらけの景色から、薄暗い暗闇の中にやってきた。  「ここが君のお父さんの魂だよ」と男の子は言う。  「おい、誰が連れてきてくれと言った。私はこんな所にいたくない」と言い返す。  「あそこ見て」と男の子は指さす。男の子は勝手に話を進めている。私の話を全然聞いてはない。    男の子が指さした先には、街灯が灯っていた。そしてその光の元、一人の男性がうずくまっていた。  男の子は私の手を取り、光のほうへ引っ張って行った。思いのほか力強かった。私は抵抗したが引きずられるように引っ張られた。  「認めてほしかっただけなんだ。かまってほしかっただけなんだ」  うずくまっている男性は、小声で念仏でも唱えるようにブツブツと繰り返し呟いていた。  うずくまっている男性は、もちろん私の父親だった。母と別れた頃の姿だった。  「お父さんの魂の空間には何もない。だから頭の感情に支配されやすいんだ。ついつい自分のことばかり気になっちゃう。でも仕方ないのさ。君のお父さんは、まだ十八回目の人生なのだから」  男の子は説明する。  十八回目?仕方ない?私が感情を出すことができなくなったのは、この男のせいだ。この男が父親だったせいで、私は自分の感情を抑えつけるようにして育ってしまった。  「この男が成長すればいい。この男が人生を繰り返して成長すれば、私だってまともな人生になるはずだ」  私はうずくまっている父親を見下す。  「それは無理だよ」と男の子は言う。  「なぜだ?」  「父さんは十八回目の人生で止まっているから」  「はあ?どういうことだよ」  「君がいる世界は、君だけのために作られている世界なんだ。人生を繰り返し、自分の魂を美しくするためにだけに存在する世界なんだ」  「じゃあ、他のみんなは何なんだ?ただの人形なのか?」  「それは違うよ。ちゃんと生きているよ。みんなはみんなの世界があって、そこで人生を繰り返している。君のお父さんも、お父さんの世界があり、そこで魂を美しくするために人生を繰り返している。その中の十八回目の人生のお父さんが、君の世界に来てくれているんだ」  意味が分からない。私は思考を整理する。    私は考えをまとめながら男の子にゆっくりと質問する。  「私の世界は、私の魂を美しくするために存在している。そして私以外の一人一人にも、その人だけの世界は存在しているということなのか?」  「うん、そういうこと」と男の子は頷く。  「じゃあ、世界は人の数だけ存在してるのか?」。私は驚きながら訊く。  「うん、そういうこと」。男の子は平然と答える。  私はまたしばらく考える。  佐々木は七十七回目の人生。戸田は六十五回目の人生だった。そして父親は十八回目の人生。私の世界では、私以外は人生の回数は増えないということらしい。  私は疑問に思ったことを口にする。「私以外の人の人生の回数は、誰が決めたんだ?」と。  「それは神様だよ」と男の子は答えた。  「どういうふうに選んでるんだ?」  「それは僕にも分からない。ただ、神様が決めたことだから理由があるのかもしれない。だから君の世界で、君のお父さんが十八回目の人生なのも意味があることかもしれない」  「どんな意味だよ」と私は訊く。  「だから、それは僕にも分からない」  珍しく男の子も不貞腐れる。  男の子は指をパチンと鳴らした。暗闇の空間から霧の空間に戻ってきた。  「とりあえず、君が感情を抑えつけ隠そうとするのは、お父さんが影響だろ?」と男の子は言う。  「大人のくせに感情的になるなんて、みっともないことだろ?」と私は言い返す。  「でも人間が活動する上で重要なのが感情なんだ。感情というのはエネルギー源」  「エネルギー源?」  「そうだよ。感情に良いも悪いも無い、ただのエネルギー源。自分を動かすためのエネルギー源だよ。だから感情的だからって、みっともなくない。感情を自分を動かすために使わず、誰か他人へぶつけるからみっともなく見えるんだよ」  男の子は一呼吸を置いた。  「感情的になったら自分を動かせばいい。辛ければ、一人の時に泣けばいいし叫んでもいい。感情というエネルギーを消費させることが、感情と上手く付き合うコツだよ」    男の子は周りを見る。そして話を続ける。  「君の魂の空間が霧だらけなのは、感情を抑えて隠してるせいだよ。頭の感情を抑制しているから行動しない。行動しないから好きなことも分からない。好きなことが分からないから心の感情もない。もっと感情を解放し、自分を表現してみなよ」  「急に、感情を解放しろ、と言われても、そんなやり方、分からない」と私は戸惑う。  「今感じてることを、叫べばいいじゃないか」  私は今感じていることに意識を向ける。父親に対して思うことがある。ずっと奥底に溜めていたことが、急に溢れ出てきた。    私は大声で叫んだ。  「バカヤロー。お父さんのこと好きだったのに」  こんなに大きな声で叫ぶのは初めてのことだった。頭の中にあったモヤモヤがすっきりした感じがした。  私の隣で男の子が満足そうな顔をしていた。  「じゃあ、次の走馬灯に行ってみよう」  男の子は言った。口調がいままでより張り切っていた。  映像が流れ出した。そこに移っているのは母親だった。映っているのは私が小学校高学年の頃の映像だった。  なんとなく分かっていた。母親との走馬灯も流れるのではないかと。私は嫌だった。父親と同様に見たくなかった。でも、そんなことを言っても、男の子は映像を止めてくれないだろう。  「お母さん、参観日来なくてもいいから」  映像の中の小学生四、五年生の私は言う。  「なんで?」と母親が言う  「お母さんがいると恥ずかしいから」  小学生の私は、何の悪気もなく言っていた。  私は母親のことを見下していた。それは私が小学生高学年の頃からずっと続いている。母親の性格がお人好しで温和なこともあって、私は何をしても怒られることがなかった。    母は父と離婚して、清掃の仕事をするようになった。しかし朝から晩まで働いても、私たちの生活は一般家庭より貧しい生活をしていた。  小学生の低学年まで、私はそんなこと気にもしてなかったのだけど、高学年になるにつれて友達の目が気になるようになっていた。だから参観日で母親が学校に来ることは、私にとって恥ずかしくて嫌な行事だった。友達の母親は、化粧してお洒落な服を着て学校に来るのに、うちの母親は、仕事途中の作業着のままでやって来る。私にとってそれがとてつもなく嫌だった。だから母親には学校に来なくていいと言うようになった。  走馬灯の映像が流れ続けていた。    小学校の教室。教室の後ろには母親たちが並んでいる。母親全員、お洒落してる。お洒落な母親たちの中に、私の母親はいない。しかし教室の外から、私の母親が教室を覗く姿が映像に映っている。    私は知らなかった。母親がこっそりと参観日に来ていたことに。  作業着のまま学校に来て、そして私に見つからないように帰って行く。  その後、私の走馬灯ではいろんな学校行事が流れ出す。  運動会。音楽発表会。卒業式。  私は今日まで母親は学校行事に来てないと思っていた。私が来るなと言っていたので。しかし、母親は来ていた。私に気づかれないように、そっと。  これは小学校のときだけでなく、中学のときも、高校のときも。学校の行事で親が参加するとき、私の母親は、私に気づかれないように遠くから眺めていた。  「じゃあ、君のお母さんの魂にもお邪魔しよう」と男の子は言った。そして指をパチンと鳴らす。  景色が一気に変わる。霧だけの世界から一変した。    母親の魂の空間は、夕焼けが景色が広がっていた。空には、鱗雲が沈む太陽に照らされ朱色に染まる。地面には田んぼが一面に広がっている。田んぼに張ってある水も鏡のように空を写す。    美しかった。息をのむほど美しさだった。私はただただ見とれていた。どのくらい時間が過ぎたか分からないくらい眺めていた。  「綺麗だよね」と男の子が言う。「これが君のお母さんの魂だよ。君のお母さんは百回目の人生だよ」  「百回?」と私は驚く。  私が見下していた母親が、百回目の人生で、この美しい景色を作っていた。母はお人好しで温厚なことしか取り柄が無く、周りからバカにされ、いいように人から使われていた人生だと私は思っていた。  「和義」    私の名前を呼ぶ声がした。振り向くと母親がいた。七十過ぎた歳の母の姿がそこにあった。  母の姿を見て、私の頭の中に何かが入ってきた。入ってきのは母の想いだった。いや祈りだ。  「和義が健康で幸せでありますように」  母の祈りが私の頭の中に入る。頭から心まで響いてくる。何回も何回も。百回じゃ済まない、千回、いや一万回。一万回以上、私が産まれてからずっと母は一日も怠らず祈ってたのが分かる。  私は目の前の母の手を取った。そして膝を折り跪く。  「お母さん、ごめんな。お母さん、ごめんな。お母さん、ごめんな……」。私は「ごめんな、ごめんな」と言い続けた。自然と涙が零れ落ちる。途中から「ごめん」も言えなくなった。私はむせび泣くことしかできなかった。母は私はそっと抱きしめてくれた。  私はどのくらい泣いただろうか?やっと涙が止まり、呼吸が整うようになった。  周りを見渡すと、母の姿はなかったし、霧だらけの空間に戻っていた。  私は目の前の男の子に言う。  「私を現世に戻してくれ」  「もう帰るのかい?まだ他の走馬灯を見ていけばいいのに」  「いや、もういい。すぐにでも戻してくれ」  「ここでゆっくりしても、現世の時間は変わらないよ。魂では時間は止まっているようなもんだから」  「いや、関係ない。すぐにでも現世に戻りたいんだ」  男の子はニコニコしていた表情から真剣な表情になった。  「現世に戻ると、ここでの記憶は無くなるけど本当に大丈夫?」  男の子の言葉を聞き、私は考える。ここでの記憶は無くなっても、私はなんとしてでも人生をやりきりたい気持ちがあった。私は男の子に向かって力強く頷く。  「人生を変えたいなら、今日を変えないといけない。人生を充実したものにするには、今日充実したものにしなければいけない。常に今日しかないんだ。そして今日が重なって人生になる。今日を変えれないなら、人生も変えれない。人生が変えれないなら、その次の来世の人生も変えられない」  私は過去の人生十回、同じことを繰り返していた、自分でつまらない人生だと感じながらも、何も変えようとしなかった。  男の子は話を続ける。  「人生は辛いこともある。本当に辛いなら逃げてもいいんだよ。ただ、立ち止まっているだけでは駄目だよ。そこから抜け出したいなら走り出さないと」  私は頷く。  「僕から今言えることこんなことだけど、さっきも言ったように、ここでの記憶は消える。でもここで感じた気持ちは、ちゃんと魂に蓄積されているから」 男の子は右手を出し、私に握手を求めてきた。私は男の子の手を握る。 男の子は言った。「じゃあ、次ぎ会うときまで、しばらくのお別れだ」 ~~~~~~~~~~~  目が覚めると、私の妻が泣きじゃくっていた。  「あなた、大丈夫?大丈夫?」と妻が繰り返し言う。妻は取り乱していた。  私は見覚えのない部屋にいた。ベッドに寝かされているのは分かった。でも何でベッドに寝かされているのか理由が分からない。確か私は仕事に行こうとしていたはず…?  私は自分の記憶を探ろうとしたが、その前に私の目の前に医者が来た。どうやらここは病院らしい。  私はこのあと、妻や医者の説明で事情を知る。    私が朝、出勤中、目の前にいた子供が道路に飛び出し、車に轢かれそうになったところ、私は子供を救おうと走り出し、子供の代わりに私が車に轢かれたという。  その後、私を轢いた車の運転手が救急車を呼んでくれた。しかし私が救った子供は現場から消えたという。運転手の証言によれば、小学生くらいの男の子だったらしい。  私は頭を打ったみたいで、道に飛び出すところから、病院で目が覚めるまでの記憶がすっぽりと抜け落ちていた。時間にすれば三時間ほどだが全然思い出せなかった。医者曰く、一種の記憶障害らしい。  それ以外の記憶ははっきりしていたし、体も状態も擦り傷と打撲程度だった。念のため検査のため入院をし、それから数日ですぐ退院できた。 ~~~~~~~~~~~  周り一面が霧に囲まれていた。  私は全てを思い出した。私は四十六歳のときここに来た。ここは私の魂の空間だ。  「やあ、三十八年振りだね」  男の子が現れて言った。    私の子供の頃の姿をしている男の子。私の魂の一部だ。  私は自分が亡くなったことを理解した。八十四歳の生涯。四十二回目の人生を終えたのだ。  「これ、見なよ」  男の子は指にキーホルダーを引っ掛けクルクル回す。そしてそのキーホルダーを私に向かって放る。  私はキャッチしそのキーホルダーを見た。楽器のベースの形をしていた。  「ひょっとして、これが四十二回目の人生の成果なのか?」  「うん。そうだよ」  「これだけなのか?」  「うん、そうだよ」  私はがっかりした。私は肩を落とす。  男の子はケタケタと笑う。「冗談だよ。上を見てごらん」と男の子は言い、人差し指を上に向ける。  私は男の子の指をたどり、顔を上に向けた。  一瞬、太陽の光に目がくらむ。光に目を慣らし、ゆっくりゆっくり目を開ける。上空には真っ青な空が広がっていた。吸い込まれるような青空だった。そして太陽の周りを虹が輪っかのように囲っていた。  四十六歳までとは違う。私は現世に戻ってから人生を楽しんだ。家族や友達と一緒に過ごすことも多くなった。母にも少しだが親孝行ができたと思う。確かに辛いこと後悔することも多かったが、でも充実した日もたくさんあった。    私は四十三回目の人生に向けて気持ちが上がった。  私の心を察してか、男の子が私を(たしな)める。「次の人生の前に、走馬灯を見よう」と男の子が言う。  私の目の前に映像が流れる。    私が歩いている。仕事に行くときの映像だった。  私の目の前を歩いていた男の子が道路に飛び出した。すぐ車が来るのが分かった。私は男の子を助けようと走り出す。私が男の子の背中を捕まえようとした瞬間、男の子はスゥーっと移動し私の手からすり抜けた。そして男の子は道路の隅に飛んで行った。私だけが道路の中央に残され、私だけが車に轢かれた。  私は道路で転げている。道路の隅っこに逃げた男の子が振り向く。男の子の顔が見えた。男の子の顔は、私の子供の頃の顔だった。  私は目の前の映像から目を離し、私の魂である男の子のほうを見た。  男の子は手を合わせていた。  「ごめんね。あのときは痛かったかったよね?」  男の子は申し訳ない声で言っていたが、しかし、顔はいたずらっ子のような表情をしていた。 ********* 私たちの心は、芸術家によって彩られるカンバスであり、その絵の具となるのが私たちの感情で、明暗となるのが私たちの喜びの光であったり、悲しみの影であったりするのだ 岡倉天心 (美術評論家,美術史家,詩人,教育家)
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加