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素顔は…
振り向きざまにいずみちゃんが聞いてきた。まるで恋人とデートでもしているような話し方だ。
「その……言いにくいけど……俺、財布持ってきてなくて……」
財布も持たずに出てきたのを少し後悔した。
「うーーん……どうしよっか?」
空を見上げながらいずみちゃんが何か考えている。教師の雰囲気など微じんも感じさせない、どこにでもいる普通の女性の姿だった。
「じゃ、ちょっと歩くけどついて来て」
瞬間的に何かを期待した。具体的には言いづらいよこしまな何かをだ。
いずみちゃんに言われるままについて行く。
断る選択肢もあったのだけれども、それを選ばないことが特別な優越感と何かを期待するみたいに思えていた。
地味でダサく思えていた担任は、目の前で全く別の容姿になって僕に話しかけている。
側から見れば僕たちは恋人同士の様に見えるのだろうか?
それとも姉弟の様に見えるのか?
それにこんなところを誰かに見られたら学校で何て言われるのだろうか? そもそも目の前を歩いているのが、いずみちゃんだと分かるやつが生徒の中にいったい何人いるのだろうかなど、取り止めのない思いが浮かんでは消えていく。
「ねえ!?話聞いてる?」
いつの間にかいずみちゃんは横に並んで歩いていた。
「何を聞いても……うん……ばっかりじゃん」
全く話を聞いていなかった事に焦ってしまう。少し膨れっ面みたいな表情はやはり幼さが見え隠れしていた。
「着いたよ!」
気が付けばシックな装いのマンションの前にいた。数年前に建ったそのマンションは、低層階の建物しかないこの街には不釣り合いな十五階建てで、自宅とは比べ物にならないくらいお洒落だった。知らない建物ではなかった。知り合いが住んでいるわけでもないが、半分は分譲で半分は賃貸、うわさ話の好きな近所のおばさんが母親と話しているのを何となく聞き覚えていた。
「えっと……ここは?」
「わたしの家だけど? どうせお金も持ってないでしょ?外じゃ暑いし、なら私の家が早いかなって思って」
「それっていろいろまずいんじゃない?」
「そうね……別に悪いことしている訳じゃないからいいんじゃないかな?ほら行くよ」
あっけらかんと言い放ついずみちゃんにしどろもどろになりながらついて行った。
奇麗なホールにはエレベーターが二列並んでいる。
二人でその一つに乗ると今まで気づかなかったが彼女から甘い香りがした。大きく一つ息を飲むとその音が聞こえているんじゃないかと思うくらい近い距離にいた。
最近では親とも同級生の女の子ともこんなに近くにいたことは記憶を手繰り寄せても思い出せなかった。六階のランプが光るとスッと静かにエレベーターが動き出した。
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