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わかれ道
あの夜。
母親が止めてくれなかったら、俺は祖母を殴りつけていた。
犯罪者として、テレビや新聞をにぎわせていたかもしれない。
追い詰められていたって、今はわかる。
でも、毎日毎日、少しずつたまっていく黒いモノに気づかず、まだ頑張れると思い込んでいた。
翌日、祖母を迎えに来たデイケア施設のスタッフさんが、仕事を休んだ母と、学校を休んだ俺を見て察してくれたらしい。
すぐに役所からケースワーカーだという人が来てくれて、母親と長い長い話をしていた。
「離婚されたご主人と、連絡なんかは」
「ないですね」
「養育費の支払いは?」
「最初の一年もなかったと思います」
「どこにいるかとか」
「知りたいとも思いません。私と息子に、暴力を振るっていた人ですから」
「……そう、ですか。なら、弟さんはいかがですか?」
「……弟……」
母親の口が重くなる。
「でも、あの子は商社勤めで、海外です」
「隣の市で、居酒屋をやってらっしゃいますよ。転職されたって、調べはついてます」
「はい?……興信所みたいに、調べたんですか?」
「まっさかぁ。たまたまですよ。ご利用になってるデイサービスの別施設に、弟さんの奥様がお勤めなんです。ご存じなかったですか?」
「……初耳です」
「ぶっちゃけ、こじれてるんですもんねぇ、弟さんと」
「え、そんなことまで?……フフっ」
母親の笑い声を、久しぶりに聞いた。
「何かおかしかったですか?」
「いえ、ずいぶん気安いなって」
「あー、不愉快にさせたんなら、ごめんなさい。よく怒られるんですよねぇ、役人らしくしろって。でも、役人らしいってなんですかね?」
そんなことを聞く「役人」がいると思わなかった。
もう一度、今度ははっきりと笑ったから、母親も同じことを考えたらしい。
そして、その翌日には「すっ飛んで」とう表現がぴったりなほどの勢いで、叔父が訪ねてきてくれた。
「仲はよくない」とだけ聞いてたから、もっと怖い人かと思ってのに、そんなことは全然なくて。
住んでた家の売却も、祖母の施設入所の手続きも、全部叔父が進めてくれた。
「航はオレと一緒に来い。うちは子供はいないから、気兼ねしなくていいぞ」
「ちょっと旅行に行こうぜ」くらいのノリで言われて、びっくりした。
「でも、家事とか、母さんの手伝いがあるから」
「ばかねえ。私ひとりなら、なんとでもなる。航」
小さいころのように、母親が俺の頭をなでる。
「おばあちゃんのことは、私が責任を取らなきゃって、気負ってた。離婚して戻った私たちを、黙って受け入れてくれた恩もあるし。でも、それを航にまで背負わせることは、間違ってたね」
「俺がいなきゃ、母さん、仕事できなかったろ」
「それを当然と思っちゃダメだったのよ。学校も休ませるなんて」
「俺が選んだんだ。なら、俺も働く。高校なんて、行ったってしょうがない」
親しいヤツもいない。成績もいまいち。
なんで通ってるんだろうって、自分でも思っていたくらいだ。
「それは違うぞ、航」
ため息をついた叔父が、俺の背中をバンバンと叩く。
「身につけた知識や知恵は、お前を裏切らないんだから」
「でも、学費だって、」
言いかけた俺の目の前で、母親がひらひらと通帳を振ってみせた。
「内緒で掛けていた学資保険、慰謝料代わりに持ってきたからね。もうすぐ満期よ」
「もっと、へそくってやればよかったのに」
「お金遣いの荒い人だったから」
「だから、あんなダメンズやめろって言ったのに」
「もう言わないで。……反省はしてるの」
「ひとりで頑張っちゃうのも、なしだぜ。これからはもうちょっと、自分を大切にしてくれよ」
「……ありがとう」
母親の結婚でこじれたという姉弟仲は、修復されたみたいで、ほっとする。
祖母の介護で、正社員だった仕事を続けられなくなって。
それからは、いくつものパートを掛け持ちしてきた母親は、気がつけば、ずいぶんと小さくなってしまった。
「俺がいないほうが楽?」
「そうじゃない、寂しいに決まってる。でも」
俺を抱きしめる腕だって、こんなに細い。
「幸せの形は、ひとつじゃないのよ」
ごめんなさいと謝られて、そんなことないよと返したかったのに。
俺はただ、黙ってうなずくことしかできなかった。
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