兆し

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兆し

 風呂を借りてからリビングに戻ると、叔父さんが手酌で一杯やっていた。 「おー、(わたる)、今日もありがとな。お前も飲むか!」 「俺、まだハタチ前です」 「んじゃ、麦酒ならぬ麦茶だな。作りすぎちゃったチーズの青じそ揚げ、片付けるの手伝ってくれよ」  「(わたる)が食べてくれないと捨てる」なんて言われたら、つき合わないわけにはいかない。   「こないだ、久しぶりにケースワーカーさんが来てくれたろ」  ビールを飲み干した叔父さんが、グラスをテーブルに置いた。  お世話になったケースワーカーさんは、たまに叔父さんの居酒屋に顔を出しては、一杯おごられたりしている。 「あれさ、受けてみないか」  「あれ」とは、俺が住んでいた市で行う「ヤングケアラーの会」で、話をしてほしいという依頼のことだろう。 「でも……」 「なあ、もしだよ」  叔父さんが身を乗り出してくる。 「高校んときの同級生とか、まあ誰でもいいけど、介護なんかしたことないヤツから、”タイヘンそうだねー、カワイそー”とか言われたら、どうだ?」 「ムカつく」  即答だ。  だって、そういうのがイヤだったから、誰にもなにも言わなかったんだから。 「だよな。”止まない雨はないから、がんばって”とか」 「殴る」  今度も即答すると、叔父さんはうなずいてくれた。 「濡れたこともないのに、軽く言うなって思うよな。けど、お前はその雨を知ってる。お前の言葉なら、ずぶ濡れになっている人にも届く、かもしれないと思うんだ。絶対はないけど」  叔父さんの、こういうところが好きだな。 「人は、人と出会うことで変わってしまうし、変わっていける。(わたる)がもし、万が一でも、今の状況に感謝してるなら」 「万が一どころじゃないよ」 「お、ありがとな」  叔父さんの腕が伸びてきて、壊れ物を扱うような手つきで俺をなでてくれる。 「お前の出会いを可能性にして、届けてみないか。ワーカーさんも、それを期待してると思うんだ」 「……俺、人前でしゃべれるかな」 「座談会形式だって言ってたし、仕切りがワーカーさんだろ。堅苦しくはないと思うぞ」 「誰かの役に立てるかな」 「さあなあ。役に立たせるかどうかは、受け取ったヤツ次第だ。ただ、出会いがなければ、役に立つもクソもないだろ。その程度でいいんだよ。それで十分」  軽く笑ってみせる叔父さんは、ホントにいい人だ。    叔父さんとの出会いは、本当に感謝している。  それを証明するためだけにも、俺はケースワーカーさんの依頼を受けることにした。  俺の話が、誰かの背中を押せたかどうかはわからない。  けれど、俺の背中はその日、確かに押してもらったんだ。  
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