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日常
HRの終わりを告げる担任の声と同時に、席を立った。
「部活ー」
「どっか寄ってく?」
クラスメートの声など、あっという間に後ろに流れていく。
急がないと間に合わない。
校門から駅まで、陸上部員のように走った。
……高校に入ってから、ずっと帰宅部だけれど。
最寄り駅についてからもダッシュ。
そうして、家の玄関が見えてきたときには、ちょうどデイケア施設の送迎車が、門の前に停まるところだった。
肩で息をしながら玄関の鍵を開けて、大きくドアを開けたところで、祖母がスタッフの女性に手を引かれて車を降りてくる。
よかった、今日も間に合った。
電車の事故で出迎えが遅れたときは、焦ったなんてもんじゃない。
仕事中の母には連絡がつかなくて、祖母は戻ったデイケア施設で過ごさせてもらえたけれど、そうとう暴れたと聞いている。
後日、母とふたりで頭を下げまくったのも、苦い思い出だ。
祖母に認知症状が出始めたのは、5年くらい前。
介護保険を使うようになってからは、もう2年が経つ。
今では自分の娘である、俺の母親のことも、ときどきわからなくなるらしい。
「お帰りなさい」
「お迎えごくろうさま、ワタル」
尊大な感じでうなずきながら、祖母が俺の肩を叩く。
「のどがかわいたから、お茶にしてちょうだい」
「かしこまりました、奥様」
毎日のやり取りに、送迎スタッフさんが吹き出した。
「世を忍ぶ仮の使用人が板についてきたね、航くん」
「そう、ですね」
「トイレ介助してて、”お前はどこの誰だっ”って、怒鳴られたんだっけ」
「ですね」
「とっさに”奥様、新しく入った使用人です”って返すなんて、キミは賢いよ」
「しー!」
ドライバーさんがほめてくれるけれど、祖母の耳に入れたくない。
認知症状は、日によって波がある。
自分がだまされてると思ってしまったら、またパニックを起こすかもしれない。
「ワタル、無駄口を叩いていないでっ」
「はい、ただいま!」
もう一度スタッフさんたちに頭を下げてから、俺はさっさと家に入っていく祖母の背中を追った。
カチャリと玄関の鍵がかかる音を確認してから、送迎スタッフがミニバンに乗り込む。
これが最後の送りだったため、車内はドライバーとふたりきりだ。
「あの子、高校生なのに……」
シートに腰掛けながら、送迎スタッフがつぶやく。
「お母さんがダブルワークだから、仕方ないとはいえなぁ。食事や夜中の介護も、あの子が中心だろ」
「大変でしょうって言ったら、”お風呂入れてもらえるだけで、大助かりです”って、お礼を言われちゃいました」
「お風呂、嫌がる人、多いからな。家の風呂って、案外、事故も多いし」
「でも、これじゃあ勉強する時間もないでしょう。就職だってままならない。部活は諦めたって」
ふたり分のため息が、車内を満たした。
「やりたかったことを、どれだけ我慢してきたんだろうな」
「こういうとき、私たちは無力ですね。利用者さんには、できる限りのことをするつもりですけど……」
「いや、そうでもない」
信号待ちで振り返ったドライバーが、ニヤリと笑う。
「今の行政のケースワーカー、ちょっといいヤツらしいぞ。仲間から聞いたんだけど」
「何か、打つ手がありますかね?」
「簡単に解決することじゃないだろうけど、つないでみて損はないだろう」
夕日が傾く街並みのなか、茜色に染まる白いミニバンが走り抜けていった。
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