霧中

1/1
前へ
/6ページ
次へ

霧中

 グラスをぶつけ合う音や、にぎやかな笑い声。 「こっち、ビール追加ねー!」 「はーい」 「おにーさん、オーダー!えっとねぇ」  受けた注文を胸で繰り返してから、厨房に怒鳴った。 「3卓、生中三つ。5卓、焼き鳥盛り合わせとシャキシャキサラダ」 「あいよ!」  威勢のいい返事とともに、厨房から叔父さんの顔がのぞく。 「(わたる)、今日はもういいぞ」 「いえ、ラストまでいます。すごい混んでるから、叔父さん大変でしょ」 「ここじゃ大将って呼べって」  すっかり「大将」が板についている叔父さんは、元商社マンと聞いてもピンとこない。  バリバリ仕事をしていたのに、奥さんの実家の居酒屋が傾きかけていると知ったとたんに、未練もなく転職を決めたそうだ。  高校卒業してからは、「居酒屋の手伝い」という身分で住まわせてもらっている。  「家族と同様に」と叔父さんは言ってくれるけど、そういうわけにはいかない。  食費分くらいは働かないと。 ◇  (まかな)いの昼ご飯を食べ終えた、ふたりのパートさんがお茶を()れている。 「(わたる)ちゃんも、お饅頭食べない?」 「あとでいただきます。ありがとうございます」 「おなかいっぱい?」 「はい」 「ああ、そんなのこっちで洗うわよ」 「いえ、ついでなんで」  パートさんの食器も片付けながら、ぺこりと頭を下げた。  食器を洗う水音にまぎれて、パートさんたちの話し声が切れ切れに聞こえてくる。  子育てや、夫へのちょっとした愚痴。面白かったこと。休みの予定。  パートさんたちの笑顔からは、温かい家庭が透けて見えるようだ。  別にうらやましくはない。  だって、別世界のことだから。 「もう食べ終わったのか?」  商店会に呼ばれていた叔父さんが、戻ってきた。 「オレの分は自分でやるから、少し休め」 「大丈夫。若いから」  ふざけて笑ってみたけど、上手くいかなかったらしい。  微妙な顔をする叔父さんに、(まかな)いが乗ったトレイを指さした。 「早く食べちゃって。今日の夜、二組も宴会が入ってるよ」 「わかった、わかった。……(わたる)」  顔を上げると、怖いくらい真剣な顔をした叔父さんと目が合う。 「あのこと、ちゃんと考えておいてくれよ」  な、と念押しをして、叔父さんは姿を消した。  洗い物が終わったら、個室の掃除をしよう。  それが終わったら、食材の在庫確認をして……。  耳にこびりついたを忘れたくて、これからやる仕事のことだけを考えた。 「そろそろ、進路を決めような」  今まで、何度か冗談交じりに言われてきたけれど、昨夜の叔父さんは目が本気だった。  だけど、叔父さん。  進む道なんか、わかんないよ。  ここにいちゃいけないの?  ここも、追い出されるの?
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!

15人が本棚に入れています
本棚に追加