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凍りついた瞳
個室を掃除する音が、さっきからずっと聞こえてきている。
指示なんかしていないが、いつものとおり、埃ひとつないくらいに磨き上げるんだろう。
赤ん坊のとき以来会っていなかった甥っ子は、ずいぶんと諦めた目をした高校生になっていた。
「こんなことなら、意地張ってないで、もっと早く会いにいけばよかった」
「タイミングがあるから。もう少し早かったら、会ってもらえなかったかも」
「あー、”自分たちでできる”とかな。姉貴、意地っ張りだからなあ」
「似た者姉弟だねえ」
くすくす笑う妻に、今回は本当に助けられたと思う。
「うちの系列施設の利用者さんで、気になる人がいるんだよね。お迎えが、いつも高校生の子らしいの」
「高校生?」
「そう、いわゆる”ヤングケアラー”ってやつ」
聞きなれない単語に、耳をそばだてた。
「家庭の事情で、家族の介護を担う未成年のことをそう呼ぶんだけど」
「ふーん。多いのか?」
「多分、あなたが思っているよりもね。子供はそれが日常だから、SOSを出せないの。最近、やっと表面化してきたってところかな」
「そうなのか」
「でね」
意味深な妻の瞳に、心がざわつく。
「あなたの実家って、隣の市だったでしょう?」
「うん。それが?」
「ずっと帰ってないんでしょう?」
「姉貴と決裂してからな」
「たまには帰ってみたら?」
どうして、と聞こうとして、そのまま口を閉じた。
施設職員には守秘義務がある。
おいそれとは話せない。けれど、伝えたい。
妻の目は、ありありとそう語っている。
「……わかった。今度、行ってくる」
そうして、こっそり訪ねた実家の玄関で、オレは頭を殴られたような気分になった。
「どうして、そうグズなんだい!」
認知症が進んだ様子のオレの母親からの怒声を、黙って耐えている高校生の甥っ子。
離婚した姉が実家に戻ったことは、母親からの連絡で知っていた。
そのころは、まだ母親も元気だったと思う。
ほんの数年で、こんなことになっていたとは。
「聞いてるのかいっ、ワタル!」
甥っ子に振り下ろされた手は、老婆のものだ。
そんなに威力はない。
けれど、甥っ子がぶたれる筋合いなど、ひとつもないのに。
「……奥様、家に入りましょう」
まるで使用人のようなその口調に、胸がギリギリと痛んだ。
オレが動こうとした矢先、行政のケースワーカーから連絡がきた。
やつれた姉と憔悴しきってる甥っ子を前にすれば、涙が出そうだったが、そんな暇はない。
そうして姉との話し合はすぐにまとまって、甥っ子はオレの元で暮らすことになった。
けれど。
出席日数ギリギリで高校を卒業した航は、当然、勉強は進んでいなかった。
予備校通いも勧めたが、「迷惑かけたくない」の一点張り。
やりたいことを聞いて、店の手伝いと言われてしまえば、無下にもできない。
「心を回復させる、リハビリ期間が必要なのかもね。航くんは、”凍りついた凝視”だから」
「凍りついた……?なにそれ」
「医学用語で”Frozen watchfulness”とも言うのだけれど。虐待を受け続けて、感情を失くした子供の表情のこと」
「……あいつは、虐待は受けてない」
「わかってる。でも、言葉はね、呪いなのよ」
「呪い?」
「たとえ病気が言わせているのだとしても、九官鳥の鳴き声だとしても。”お前なんかいらない”、”お前はダメなヤツだ”とか、自分を否定する言葉を聞き続けていたら、心が折れちゃうわ。毎日毎日、ことあるごとに言われることを想像してみて。……それは、虐待とニアイコールよ」
妻の言葉に、いつの間にか握っていた拳が震えた。
一緒に暮らし始めてわかったけれど、航は自分の希望を言わない。
いや、言わないんじゃなくて、ないんだ。
食べたいものも、やりたいことも。
与えられたものでやりくりして、耐えるだけで精一杯だった日常に、「希望」を持つことを諦めたのだろう。
取り戻してやりたい。
彼が本来持つべき未来を、心を。
「長丁場を覚悟しないと」
「……ごめんな」
「なんで謝るのよ!」
ちょっと怒った顔をして、妻がペシンと俺の額を叩いた。
「家族じゃないの。航くんの心からの笑顔、私も見たいわ」
「……ありがとう」
寄り添ってくれる人の温かさ。
航にも、いつかこんな出会いがありますようにと、願わずにはいられなかった。
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