凍りついた瞳

1/1
前へ
/6ページ
次へ

凍りついた瞳

 個室を掃除する音が、さっきからずっと聞こえてきている。  指示なんかしていないが、いつものとおり、(ほこり)ひとつないくらいに磨き上げるんだろう。  赤ん坊のとき以来会っていなかった甥っ子は、ずいぶんと諦めた目をした高校生になっていた。 「こんなことなら、意地張ってないで、もっと早く会いにいけばよかった」 「タイミングがあるから。もう少し早かったら、会ってもらえなかったかも」 「あー、”自分たちでできる”とかな。姉貴、意地っ張りだからなあ」 「似た者姉弟(きょうだい)だねえ」  くすくす笑う妻に、今回は本当に助けられたと思う。 「うちの系列施設の利用者さんで、気になる人がいるんだよね。お迎えが、いつも高校生の子らしいの」 「高校生?」 「そう、いわゆる”ヤングケアラー”ってやつ」  聞きなれない単語に、耳をそばだてた。 「家庭の事情で、家族の介護を担う未成年のことをそう呼ぶんだけど」 「ふーん。多いのか?」 「多分、あなたが思っているよりもね。子供はそれがだから、SOSを出せないの。最近、やっと表面化してきたってところかな」 「そうなのか」 「でね」  意味深な妻の瞳に、心がざわつく。 「あなたの実家って、隣の市だったでしょう?」 「うん。それが?」 「ずっと帰ってないんでしょう?」 「姉貴と決裂してからな」 「たまには帰ってみたら?」  どうして、と聞こうとして、そのまま口を閉じた。  施設職員には守秘義務がある。  おいそれとは話せない。けれど、伝えたい。  妻の目は、ありありとそう語っている。 「……わかった。今度、行ってくる」  そうして、こっそり訪ねた実家の玄関で、オレは頭を殴られたような気分になった。 「どうして、そうグズなんだい!」  認知症が進んだ様子のオレの母親からの怒声を、黙って耐えている高校生の甥っ子。    離婚した姉が実家に戻ったことは、母親からの連絡で知っていた。  そのころは、まだ母親も元気だったと思う。  ほんの数年で、こんなことになっていたとは。 「聞いてるのかいっ、ワタル!」  甥っ子に振り下ろされた手は、老婆のものだ。  そんなに威力はない。  けれど、甥っ子がぶたれる筋合いなど、ひとつもないのに。 「……奥様、家に入りましょう」  まるで使用人のようなその口調に、胸がギリギリと痛んだ。  オレが動こうとした矢先、行政のケースワーカーから連絡がきた。  やつれた姉と憔悴しきってる甥っ子を前にすれば、涙が出そうだったが、そんな暇はない。  そうして姉との話し合はすぐにまとまって、甥っ子はオレの元で暮らすことになった。  けれど。  出席日数ギリギリで高校を卒業した(わたる)は、当然、勉強は進んでいなかった。  予備校通いも勧めたが、「迷惑かけたくない」の一点張り。  やりたいことを聞いて、店の手伝いと言われてしまえば、無下にもできない。 「心を回復させる、リハビリ期間が必要なのかもね。(わたる)くんは、”凍りついた凝視”だから」 「凍りついた……?なにそれ」 「医学用語で”Frozen watchfulness”とも言うのだけれど。虐待を受け続けて、感情を失くした子供の表情のこと」 「……あいつは、虐待は受けてない」 「わかってる。でも、言葉はね、呪いなのよ」 「呪い?」 「たとえ病気が言わせているのだとしても、九官鳥の鳴き声だとしても。”お前なんかいらない”、”お前はダメなヤツだ”とか、自分を否定する言葉を聞き続けていたら、心が折れちゃうわ。毎日毎日、ことあるごとに言われることを想像してみて。……それは、虐待とニアイコールよ」  妻の言葉に、いつの間にか握っていた拳が震えた。  一緒に暮らし始めてわかったけれど、(わたる)は自分の希望を言わない。  いや、言わないんじゃなくて、ないんだ。  食べたいものも、やりたいことも。  与えられたものでやりくりして、耐えるだけで精一杯だった日常に、「希望」を持つことを諦めたのだろう。  取り戻してやりたい。  彼が本来持つべき未来を、心を。 「長丁場を覚悟しないと」 「……ごめんな」 「なんで謝るのよ!」  ちょっと怒った顔をして、妻がペシンと俺の額を叩いた。 「家族じゃないの。(わたる)くんの心からの笑顔、私も見たいわ」 「……ありがとう」  寄り添ってくれる人の温かさ。  (わたる)にも、いつかこんな出会いがありますようにと、願わずにはいられなかった。        
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!

15人が本棚に入れています
本棚に追加