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菊池詩織
菊池詩織は、結婚生活に息苦しさを覚えていた。
相手のことをよく知らぬまま、あまりにも急ぎすぎた。若かったのだ。
役の上での関係と実生活のそれを混同し、熱に浮かされたようになって周囲の忠告も耳に入らなかった。
隼人と付き合い始めた時、彼に家庭があったことも冷静さを失わせた一因かもしれない。
結婚生活はすでに破綻し、妻とは冷え切った関係にあったが、それでも隼人は子供のために仮面夫婦を演じつづけていた。
詩織のアパートでの情事のあと、妻子の待つ港区の豪邸に何食わぬ顔で帰っていく彼を見送るたび、言い知れぬ焦慮に心はかき乱された。
やがて、女優としての野心などどこかへ吹き飛んでしまい、隼人を独占したい欲求が胸を締め付けた。
「このままの関係でいいじゃないか。詩織だって女優として大成したいなら、結婚なんて考えてる場合じゃないだろ」
妻子と別れて一緒になってほしいと懇願する詩織に、隼人は冷ややかな声で返した。
「女優なんていつ辞めたっていい。私は隼人さえいれば他には何もいらない」
彼女は切羽詰まっていた。
女優の仕事には半ば見切りをつけていた。知り合いに誘われて出演した低予算の自主製作映画が予想外の大ヒットとなり、運よく世に出た形の詩織だったが、その後はテレビドラマの脇役の仕事をもらいながらも思うような結果を残せず、次第にオファーは減少していった。
この世界、運だけでは通用しないのだ。仮に隼人とのことがなかったとしても、早晩、引退を決意していたことだろう。
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