その言葉は楔となって

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 光がないと、物は見えない。物どころか、色さえも。僕は彼女がいなければ、存在しないのと同じだった。ずっと僕は透明なまま、(一度も照らされることのないまま)『僕』を終わらせていただろう。彼女の代わりに生きようなんて、そんな傲慢なことじゃない。そんな綺麗ごとじゃない。彼女の代わりなど誰もいない。僕はどうしようもなく、僕自身でしかいられなくて、投げ捨てたくなるけれど。彼女の見ていた世界の色をできれば覚えていたかった。たとえその記憶が、激しい痛みを伴うとしても。 『じゃあ、私は覚えてる』  彼女は僕にそう言った。 『これからもずっと私は、蒼くんを覚えているよ』 (僕もずっと彼女を、忘れることなんてできないだろう)  忘れたらその瞬間に、僕は歪んだ僕のまま、何の光も通さずに存在しなくなるだろう。  いつものように日が暮れて、僕はやっとニュースで映った場所に、一度行くことにした。彼女が死んだ交差点。僕はまだ、そこに足を運んでいなかった。本当は、一番に花を手向けるべきだったのに。彼女の命が奪われた場所に行きたいと思えなかったから。だから今までずっと、先延ばしにしていたのだ。  横断歩道手前のガードレールには、花束が献花されていた。僕はその場に跪いて、ただ静かに手を合わせた。言葉は何も浮かばない。どんな償いも誓いも祈りも、届かないような気がしていた。彼女が死んだという事実が、まだ受け容れられなかった。ただひとつ、この胸の痛みだけが、僕が生きている実感だった。それは彼女の言葉とともに、ずっと消えない傷となって僕を繋ぎとめていた。  どれくらいそうしていただろう。  足の痺れを感じて立ちあがったその先に、何か(﹅﹅)が落ちているのが見えた。  それは汚れていたけれど、B5サイズのノートだった。彼女が「やりたいこと」を箇条書きにしたノートだ。目にした途端息がつまって呼吸できなくなるようで、鼓動が胸を震わせた。 (ずっと、この場所にあったんだろうか)  これが彼女のノートなら、最期の大切な形見として家族が持っていきそうなのに。誰にも気づかれないまま、ここにあるのが不思議だった。ノートをめくると懐かしい彼女の筆跡が飛びこんで、文字がにじみそうになる。共有した風景が何度も再生したはずなのに、また浮かぶようだった。 ――と、  僕はノートの裏にある小さな記名欄を見て、瞬間、目を疑った。 『御幡 蒼』  そこには――僕の名前が書かれていた。  御幡 蒼?  それは、僕の筆跡だった。彼女が僕の代わりに書き記したわけじゃない。 (なぜ、名前が書かれている?)  自分の文字であることが、深い混乱を招いていた。
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