その言葉は楔となって

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(彼女は、誰だっただろう)  顔がよく見えなかった。でも、どうしようもなく知っているような気がしていた。僕は彼女の名前も思いだすことができないのに。  そのうち僕の机には花瓶が置かれるようになって、それすらなくなった後も、僕はずっと彼女から目を逸らせないままだった。見ていると胸が苦しくなって――それは知っている痛みだった。もう何度も繰り返し、なぞった傷痕のようだった。 「水門大橋から飛び降りたんだって、御幡くん」  どこかで誰かがそう言った。  水門大橋。  もうないはずの心臓が、ドクンと大きな音をたてる。そこで僕は何を、あんなに祈っていたのだろう。  次に画面が変わったとき、僕は『彼女』がひとりで、橋の上にいるのを見た。手に花束を持っている。それはアネモネのようだった。彼女は花を抜き取ると、一本ずつ川にはなった。風の抵抗を受けながら、ふわりふわりと飛んでいく。僕はその白に見とれていた。何ものにも染まらない白。その色は、潔癖でしかいられない純粋な優しさのようだった。  彼女はもしかしたら――僕を悼んでいるのだろうか。それほど繋がりのある人なんて、僕にはいないはずなのに。日常的に会話する友人のひとりもいなかった。そんな生活だったから、僕の死をかなしんでくれる人がいるとは思えない。僕はずっと、終わりのないあきらめと、虚ろな空白のなかにいた。 そのはずなのに。  どうして彼女からずっと、目が離せないんだろう。  ひとつだけ僕に差し込んだ、光のように思うんだろう。 やっと――世界の亀裂から見つけた気持ちでいるんだろう。  また場面が切り替わって、  それは暖かな春の日だった。薄く絵の具を流したような、水色の空が広がっている。 誰もいない教室に、ひとり彼女の姿があった。
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