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***
「――光琉!」
そう呼ばれたとき、私は世界が一瞬、すべての動きをとめたかに見えた。どこから聞こえるかも知れない、突き抜けるような声だった。
「あ、おいくん……?」
私はその名前を呼んで、視界の先に――『彼』を見た。焦るような必死な顔で、私のことを見つめていた。
(――どうして)
彼はいないはずなのに。一方、もうひとりの『私』が、かたくなにそれを否定した。
なんで彼がここにいるのか、その姿が見えるのか全然分からなかった。
けれど、まるで世界のはざまから見つけてもらえた気持ちだった。
(私は泣いていたのに。今さら君に会いたいなんて、叶わないと思ってたのに)
横断歩道を渡る途中。
私は、その視線を少しでもとらえておきたくて、立ちどまっていた、直後――
甲高いブレーキ音がした。
轟音にひるんで目をつむる。土煙がおさまると、私のすぐ目の前で、大型の乗用車が横倒しになっていた。
ハッと気づくと――私はしゃがみ込んでいて、すぐに立つことができなかった。
(何が、起こったんだろう……)
割れた車の窓ガラスが、いくつも道路に散らばっている。
もう少し前に出ていたら、私は轢かれていたはずだ。死んでいてもおかしくない。その事実が胸に迫って、全身に鳥肌が立っていた。
救急車のサイレンの音が、遠くの方から聞こえてくる。すぐ近くにいた私は、看護師の人に促されるまま救急車に乗っていた。
「名前は分かりますか」
「痛いところはありますか」
「生年月日を教えてください」
そんないくつかの質問に機械的に答えるさなかも、ずっと足が震えていた。
震えが、おさまらなかった。
(本当に、死んでいたかもしれない……)
あと数歩の距離だった。足を止めていなければ、確実に衝突しただろう。それがハッキリと分かるだけに、今さら恐怖が湧きあがって抑えることができなかった。
(あれは、蒼くんだった……)
もう空中に探しても、どこにも見えなかった――けれど。
それは白昼夢のような、一瞬の短い邂逅で。
幻じゃない気がしていた。
彼は世界のどこかから――私の名前を呼んだのだ。
だってその切実な声を、私は今も覚えている。
(彼が、助けてくれたんだ……)
どうしようもなく、そう思えた。
自然と涙があふれてきた。次々あふれて、とまらない。
窮地に陥るとやって来る架空の世界のヒーローみたいに、私の足を止めてくれた。
私はまだ手元に、あのノートを持っていた。ずっと握ったままだったのだ。
《別れの言葉を伝える人も、僕の胸には浮かばない》
涙が文面に落ちてゆく。
目の前が曇って見えないさなか、
『――よかった』
そう言う声が聞こえた気がして。
声に含まれる響きを感じることもできないまま、まるで崩れ落ちるように深い眠りについていた。
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