君が覚えていなくても

6/24
前へ
/92ページ
次へ
 ようやく退院できたのは、満開だった桜の花が散り始める頃だった。色んな検査をずいぶんした。体の隅々まで組み替えられたようだった。変わったことのひとつは、母親と会話するようになったことだ。 「ごめんね……」  入院中の病室で、あるとき母親はそう言った。僕は何も答えなかった。心の内側を話すには、僕はもうあまりにも大人に近づきすぎていた。母親の不在を当たり前として日々生きてきたせいか、話しかけられるたびに煩わしいとさえ思った。もう、放っておいてくれ。そう感じてしまうことすら。僕は、日常に必要な情報を得るためだけに、母親の会話に応じていた。 『片桐光琉』  その名前や、彼女の印象はずっと消えないままだった。 (これは僕の記憶じゃない)  生死の境をさまよっていたあいだ、僕の知らない『僕』がいて、彼女を忘れてしまうのを恐れているみたいだった。ただの夢ですませるには、それはあまりにも鮮明で。無視できないくらい、心の底に触れていた。 ***  始業式と同時に高校二年生になったけど、学校はほとんど行かなかった。それでも不登校児用のカリキュラムや制度があって、僕は自分で楽な方を選択したにすぎなかった。集団のなかにいるのは、やっぱり今も息苦しい。退院した今は、この命を簡単に手放そうとは思わなかった。それがなぜなのか、本当の理由を『彼』に聞いてみたかった。僕の知らないどこかの現実にいた『僕』にむかって。  まるで僕は『片桐光琉』に、恋をしていたみたいだった。
/92ページ

最初のコメントを投稿しよう!

40人が本棚に入れています
本棚に追加