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何やら気がかりな夢から覚めた時、ベッドの中で毒虫に変身している朝がくることを願っていた。
忘れ得ぬ記憶を、透明な日々に色彩を飾るような鮮烈を。
空になった家へ帰りたくはなかった。
日に焼けた往年の名作たちの隣に、華やかなコミックスや画集の代わりに黒黒とした穴が空いている本棚は何度強がってみても気味が悪くて、埃をかぶったCDを引っ張り出してきて応急処置的に塞いだ。それでも、絆創膏に出来た赤黒いシミのように押し寄せた後悔が消えることはない。
☆
「今日みたいな普通の日のことなんか、カレンダー捲って、秋になったら忘れちゃうのかな?」
答えあぐねる僕を後目に、彼女は気まぐれな猫のような足取りで、二三歩助走をつけて自転車に飛び乗り、陽炎の立つ坂を下って行った。白いブラウスを風になびかせて。
「すっかり忘れてしまって何も残らないのなら、意味はどこへ行ってしまうの?そんなの耐えられない!」
そうだね。それだけを言えたら楽だったろう。
そうなのかもしれない。――けれど。
僕はといえば、溶けだしそうに熱いアスファルトにぼうっと突っ立って、彼女がどんどん小さくなっていくのをただただ見ていた。
心臓に金平糖でもばら撒かれたみたいに、どこかちくちくとした引っ掛かりがどうしても呑み込めなかったのだ。それはどれだけ考えても上手く言葉に出来ずに喉の奥につかえていた。照れくさかったのかもしれない、彼女は砂糖菓子みたいな言葉が嫌いだったから。
金魚みたいに赤いフレームと車輪が擦れあってカラカラと鳴るのもだんだん小さくなって、最後には蝉の声だけが残った。
きっとこの時、彼女は僕の返事なんか待っていなかったのだろう。汗に塗れて、顔を真っ赤にしてそれでも笑って一緒に坂を駆け下りてくれたら、それで彼女の凡庸で透明な一日には色が着いたのかもしれない。だが僕は、色のない日々を否定することができなかった。
コントラストの薄まった空に、夏の終わりを予感させるような風が一筋吹き抜けた。
☆
熟れた蜜柑のような太陽が西へ沈む小道を冬支度を整えた雀のように、むくむくと上着を羽織った子供たちがマフラーを風になびかせて、走っていく。血液のいろで染まった頬は、もう頭を満たす海にすっかり溶け込んでしまった幼い頃の記憶を思い起こさせた。僕がここに立つ理由、それそのもの。
ふと、つかみかけていた何かが、じわりとした直感になって脳の襞に染み込んだような気がした。所在なく前に進み続ける足を止め、眠りにつく時のような静けさで透き通った空気を吸い込み、ゆっくりと目を開く。
秋風の吹く中を彼女の乗った自転車が軽やかに下っていく。白いブラウスが段々と遠く、小さく、手が届かなくなる。幻は夕焼けへ帰って行くかのように一点へ収束する。
今はもう終わったことだ。その一言で片付けてしまうことも出来ただろう。それでも、あの時引っかかった違和感を無かったことにしたくなかった。決着をつけたかった。ずっとあの日に、あの坂道に立ち止まって抱いていた想いに。
つられるように、ぎこちない右脚が地面を掴んで蹴り出す。膝に纏わりついた錆が剥がれ落ちる。
覚えていなくたって、全てを忘れてしまったとしても、それが嘘になるものか。
傘をうった雨粒が、乾いた地面に消えたからといって、 雨のもたらしたぬるい風が、よどんだ大気までもが消えてしまう訳では無い。風に吹かれて暗雲が、いつか遠くの町へ流れた時、隙間から覗く太陽はいつも以上に輝いて見えるだろう?
虹を作るのは、一筋の光と透明なプリズムだ。
言葉にできなかった感情が、届かなった想いが、暖かな春の日の溶けだした雪のように頬を伝って流れていく。
靴底が軽やかにリズムを刻む。初めはゆっくりと、だんだん跳ねるように。叫ぶように心臓が鳴る。鼻の奥がツンと冷える。西風を受けた帆のように、心は夕暮れの風にはためく。
自転車はもう、とっくに追い越していた。
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