disturbance

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過去が現在に影響を与えるように、未来も現在に影響を与える。        ―フリードリヒ・ニーチェ ピピ ピピ ピピ 『コーヒー淹れましたよ。あなたの好きな濃い目のエスプレッソです。あさひさん、起きて下さい。あさひさん、今日は3月24日金曜日、現在の時刻は午前6時30分。暖かくて気持ちのいい朝ですよ』 その時、おれは実にファンタスティックな夢を見ていた。 月の岩に座り、バーガーを食べながら地球を見下ろしていた。 美しい星だ。 ケーキやキャンディにして食べたらさぞかし甘美だろうな。 それにしても体が軽い。あ、たしか月の重力は地球の6分の1だから、軽いのは当たり前か。じゃあ飛んでみようか、軽く。 おれは半分残っているバーガーを後ろにぶん投げて、つま先に力を入れ、思いっきりジャンプをした。「ははっ」体は勢いよく跳ね上がり、上へ上へと昇ってゆき、途中で宇宙のゴミとして浮いていた鉄の棒に捕まって、その勢いで10回ほどくるくる回った。そこからゆったりと漂いながら、ただ地球を見ていた。見ていた。観ていた。 ―その時だった。 地球の向こう側に― 暗闇の黒…それよりも更に濃い黒の塊が見えた。 それは目を凝らさなければわからないほどの濃淡だが、確実に”あり”、そして時々点滅しながらゆっくりと膨張している。 おれは感じたことのない恐怖を感じはじめた。 ねっとりとまとわりつくような恐怖が背中をなぞり、それから物凄いスピードで”危険だ”と脳が言った。 それはまるで強い痛みを感じた瞬間に、電気信号が後根神経節(こうこんしんけいせつ)から脊髄へ渡り化学物質に変換して自由神経終末がそれを受け取る一連の作業の結果を【恐怖】に置き換えたかのような速さだった。 「く、来る………!」 恐怖は体を強張らせ、動かない。 その膨張していく【黒】は、あっという間に地球を食べてしまった。 まるでキャンディーを、ぽいっ、と、口の中に放り込んだかのように―。 『あさひさん、おはようございます。今朝はあなたの好きな濃い目のエスプレッソを淹れました。』 「あ、ありがとう......おはよう、琴音ちゃん」 『ふふふ。7分もお寝坊さんしてましたよ。今日はとてもいい天気です。室内は25度適温です。シャワーは浴びますか?』 「ああ、浴びるよ。」 『かしこまりました。では浴室を温めます。』 琴音ちゃんの声に心底安心した。 全身汗ばんでいて気持ちが悪い。 朝陽は冷蔵庫を開けミネラルウォーターを空の胃袋に流し込んでから、バスルームへ向かった。 ***** 「あ、夏目朝陽さん、ですよね、お久しぶりです。高崎です高崎昇です。」 「あ、高崎さん、お久しぶりです。お元気でしたか。」 「あ、はい、元気にしてました。夏目さんは…」 「おいおい、これから合コンって時になんだよ、かしこまりすぎだぞ~。もっと気楽に、肩の力を抜いて、ほら、深呼吸でもして。スーハ―。」 「如月、おまえはいいよな、気楽で。」 「は?だって俺は別に来たくなかったんだぜ、でも高崎がどうしてもって言うから仕方なくだな」 「す、すみません、夕夏さんが、如月さんが来るなら行くって言うものですから…」 「だから、俺はそんな女やめとけってあれほど言ったのに。いくら脳みそチンパンジーでもそこまで言いなりになるかね、普通。」 「こら竜也、言いすぎだぞ。お前は本物の恋愛ってもんをしたことがないから高崎さんの気持ちがわからないんだろ。高崎さんは好きな人がお前を好きでもいいってくらい夕夏さんって人を好きなんだぞ、むしろ素敵じゃないか。それに高崎さんは准教授だ、それに8つも年上だ。口が悪すぎる。脳みそチンパンジーはやめ…」 「うっせーよ!くどいんだよ。朝陽。お前にだけは恋愛指南されたくないね。おかんか。俺のおかんか。ほら、おまえの触ったドアノブこれで消毒しといてくれよ。」 (くそ、竜也め、これから女子独り占めするくせに、憎たらしい)朝陽はそう思いながら、座席シートを拭いた。 にしても、高崎昇さんはすごい。 高崎昇さんは物腰が低く、優しい~喋り方をし、少し頼りない雰囲気を醸し出してはいるが、生命科学研究部精神医学科の准教授をしている。ピシッとまとめた短い髪、清潔感のあるブルーのシャツにベージュのズボン、黒ぶちメガネは、気真面目さを絵にかいたようであった。そんな彼に朝陽は勝手に親近感を抱き、とても好感を持持っていた。つまり、【モテなそう】なイメージではあったが、今回の合コンの話を聞き、それが決定打となったのだ。 高崎さんは現在33歳、3つ年下の、着物販売店の社長に恋をした。篠原夕夏さんといって、艶のある長い黒髪と切れ長の瞳が印象的な古風な美人で、高崎さんはなんと勇気を出して電話番号を聞き出し、時々他愛もないやりとりをすること2年、ついにデートに漕ぎつけたかと思いきや、友人同伴の2対2のデートを希望されて、(ここで何故??と思ったのだが)何故か高崎さんはその時の同伴の友人に如月竜也を選んでしまったのだ。 案の定というべきか…夕夏さんは竜也に一目惚れ。 高崎さんは、如月がゲイだから大丈夫だろうと思って選んだそうだが、如月のフェロモンの強烈さを侮ってはいけない。おれなら絶対如月は連れて行かない。朝陽はそう思いながら高崎さんに同情し、ますます好感度が上がったという顛末だ。 そうして今回、またもや高崎さんは、夕夏さんに良いように操られ、今度は3対3の飲み会にしようと提案されたそうだ。それなら夕夏さんは如月に会えるし、高崎さんも夕夏さんに会えるし、もしかしたら高崎さんの気に入るような女性と出会って、夕夏さんへの(うざったい)恋心は捨てるかもしれない。夕夏さんにとってこれほどラッキーなことはない。夕夏さんの思惑にまんまとハマっている、それが今夜の飲み会だ、ってことだ。 おれは変な女には騙されない。琴音ちゃんを超える女などこの世に存在しない。 朝陽はそう思いながら、勢いよく青いポルシェのドアを閉めた。 ***** 「あれ。冗談みたいな人が一人いるんだけど。」 朝陽は一瞬耳を疑ったが、その女の第一声はそれだった。 しかも確実に自分を見た瞬間放った言葉だった。 綺麗にカールした長い髪、黒いワンピース、真っ赤な口紅とネイル。 「ちょっと美麗、やめなさいよ」 夕夏が小さな声でそう言いながら、足を組んで座るその派手な女を肘でつついた。 なんだこいつ!! 朝陽は心の中で叫び、すぐさま帰ろうかと思った瞬間、 「お行儀悪い子がいるね。そうゆうの感じ悪いよ。楽しく飲もうね。」 竜也がそう言ってそっと朝陽の腰に手を触れた。 こいつは普段はとても口が悪いが、こういうところに育ちの良さと根の優しさが滲み出るのだ。 「さてと、自己紹介の前に、シャンパン頼もっか。」 そうやってスマートに椅子に腰をかける竜也を見る、熱い目線がもう一つ増えた。 (あの派手な女、堕ちたな)朝陽はそう確信した。 【女を堕としたいならまず罵れ】 前に観た恋愛ドラマで恋愛アドバイザーという百戦錬磨の男が言っていた台詞だ。 女は初対面で優しくされるより、冷たくされる方が興味を持つという。 確かに、どこか冷たさを感じる如月竜也は、女性からすれば、それも興味をそそられる一部分なのかもしれない。「優しい男が好きなの」という女の台詞は大概嘘なのだ。 しかし、それは竜也だから効果的なのであって、自分がしたって骨の髄まで嫌われてお終いだ。人による。 よって、おれは沈黙することに決めた。 「ファッションデザイナーしてます。佐伯美麗です。はい、名刺。」 ”派手な女”はそう言いながら、名刺を配る。 「さっきはごめんなさいね。つい。だってその。…今度洋服プレゼントしますね。」 そう言いながらおれにも渡してきた。つまりその、思わず口が走ってしまうくらい、”ダサい”、ってことか。 朝陽は自分の着ている白黒のチェック柄のシャツをちらっと見た。(そうかな?) そして、美麗のインパクトのせいで見落としていたのだが、一番左の席に座る静かめの女性、 「町田波留と言います。初めまして、です。えっと、口下手なんですけど、仲良くしてください。」 ショートカットが良く似合う、可愛い感じの女性だ。今のところ一番感じが良い。 「町田ちゃん行きつけの美容院の美容師さんなんだー。こんな可愛いのに彼氏いないんだって。」 夕夏がそう言った。それから、 「タイプの人がカッコ良くない人って言うんだよ。太ってる人が好きだとか。あ、ちょうどいいじゃんね、朝陽くん、どお?」 「え! ま、まさか。おれなんて。そんな。もったいないよ。町田さん可愛いから。おれなんてそんな、釣り合わなすぎるし。」 突拍子のない流れになり、朝陽の心拍数が急激に上がった。 赤面してしどろもどろになる朝陽に、町田さんが口を開いた。 「え…私、タイプです。」 ………へ? い、今、なんて? 「私、タイプですよ、夏目さん。」 ………は? は? は? は? 銃口を突き付けられたかのようにパニックに陥った朝陽を見つめて、町田波留は顔をピンク色に染めて微笑んだ。 「お、おいおいおい、よかったじゃん朝陽!いやこいつね、いーい奴なんだよ。ちちょっとばかし口下手なだけで、な!」 何故か竜也が心底嬉しそうに朝陽の肩を叩いた。 何故か幸せムードが充満した。 何故か高崎さんまで嬉しそうにワインを注いできた。 「ご、ごめん、………帰る。」 何故かおれは席を立った。 「なにあいつ、何様。」 シン、となった背中で、美麗がそう言った。 ***** 外に出ると、小雨が降っていた。 何故あんな行動をとったのか、自分でもわからなかった。 ただ、無性に家に帰りたくなった。 タクシーを呼ぶ気にもならず、濡れながら暗い夜道を歩いた。 途中、銀杏並木に入ると、下を向いてとぼとぼ歩く朝陽の視界で、黒いパンプスが立ちはだかり足を止めた。 ゆっくり上を向く。 「こんばんは。」 赤い傘を持ったその女性はそう言って微笑んだ。 琴音ちゃんにそっくりな、あの女の人だった。
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