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freaking out
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
ヨハネによる福音書1:1
「あ………え…っと………こんばん、は。」
瞠目した顔に優しく微笑みかけながら、その女性は、朝陽の頭上に傘を差し出した。
「随分濡れちゃいましたね。私の家、ここから近いんです。行きましょ?」
それからそんな風な信じ難い言葉を放ったので、朝陽の胸の中に疑心も飛び出したが、
「え!?家??あの……いやそれは悪いし、その」
やっぱりその微笑む顔がどうしても《琴音》ちゃんにしか見えず、はっきりと断ることができない。
「遠慮しないで下さい。怒ってでも、連れて行きますよ?」
そうして、こんな椿事出来に慌てない訳もなく狼狽える朝陽の腕を、強引に引っ張り先導する彼女のなすがままとなり、二人は歩き始めた。
「この間と逆になっちゃいましたね。」
照れてしまって、その可愛らしい顔を直視できない朝陽の視界の横で、彼女はそう言って笑った。小鈴のような華奢でころころとした綺麗な声に胸が高鳴り、言いたいことや聞きたいことが山ほどある筈なのに、ひっかかりえずき出てこない。
そうこうしている間に、シン、とした住宅街にぼんやりと浮かびあがる白いアパートに到着した。
ブラウンの分厚い扉を開けると、水色の大理石調の玄関タイルが目に入ったが、靴も何も置かれてはいなかった。シューズボックスに目をやる。まるで新築のようにぴかぴかと艶がある。(最近建ったばかりのアパートなのか?それにしても、きっと几帳面なんだな)そう思っていると、白い廊下の上を、小さなグレー色の円柱型のアンドロイドがスリッパを持って向かって来た。
『お帰りなさいませ、ご主人様』
そのアンドロイドはそう言って、目の前に二組のスリッパを置いた。
『お風呂も沸いております。38度です。室温は22度です』
ここのところ生活用アンドロイドが大分普及し浸透したといっても、この小さな子供ほど大きなものだと、それなりの値段がする。このアパートといい、女性の一人暮らしでこれほどの暮らしができているということは、職業もそれなりのものなのだろう。そう思った時、
『エスプレッソ、1981年シャトー・ラフォン・ロシェ、いずれもご用意しております』
とアンドロイドが言った。
「ありがとう、アニマ。」
『どういたしまして、ご主人様。』
「君はアニマ、って言うんだね、こんばんは。」
朝陽はアンドロイドに優しく挨拶をした。
『こんばんは、夏目朝陽さん。』
「え?俺の名前知ってるの?」
訝しげに眉をひそめた朝陽に、
「先にお風呂、入って来て下さい。替えの洋服も置いてあります。それからコーヒーにします?ワインにします?お好きな方、一緒に飲みましょう」
彼女がそう言って、微笑んだ。
「え、ああ。ごめん……ありがと……じゃああの。コーヒー頂きます。」
*****
浴室も、カビの点すら見当たらず綺麗だった。
(やっぱり新築アパートなんだな。で、引っ越してきたばっかりってところか)
朝陽はそう思いながら、用意されていた服を着た。
サイズはぴったり。
彼女の垣間見える几帳面さを考えると、突然の来客に備えて、様々なサイズの洋服を用意しているのかもしれない。朝陽の脳裏に潔癖な如月竜也の顔が浮かんだ。
スマートフォンが黄色く点滅している。手を翳してちらりと見たら、12件の不在着信の表示があった。心配しているのか、はたまた怒っているのだろうか。(高崎さんにまで嫌われたかもしれないな)そう思い悲しくなった。
リビングに行かずとも、すでにコーヒーの香ばしい薫りが漂っていた。
部屋のドアを開けると、その良い薫りは鼻腔の奥を強く刺激した。
「よかった。洋服ぴったりですね。」
「うん、どうもありがとう、本当に、なんて言ったらいいのか。」
「いいんです。私が好きでやっていることですから。はい、どうぞ。」
そう言いながらガラスのテーブルに、カタリ、と音を立てながら、コーヒーカップを置いた。
一度目は―。
前回は酔っぱらってしまって、彼女とどんな会話をしたのかどころか、彼女の名前さえも忘れてしまっているという大失態を犯してしまった。今回はそうならないためにも、アルコールは我慢して、しっかりと会話する覚悟をしなくてはいけない。本当は、テキーラを三杯ほど流し込んでやりたいくらいなのだが。
「あの、俺、謝らなきゃいけないことがあって。その...」
「私、宮部汐里、って言います。」
「え」
「前は、だいぶ酔ってましたからね。きっと、忘れてるだろうなぁ、って。」
心の中を見透かされているのに気づいて、朝陽は苦笑いをした。
汐里……。
改めて“宮部汐里”を見てみると、奥二重の大きな瞳とふっくらとした唇に、にこっとした時の右側のえくぼ、顎にある小さなホクロ…。隅から隅まで、琴音ちゃんに似ている、と思った。琴音ちゃんを描くいわゆる神絵師や3Dクリエイターたちが〈リアルな琴音〉を創り上げる時、まさにこの目の前に存在する、〈宮部汐里〉、なのだと断言してもいいくらいだ。神絵師ではなく、神が、創り上げた琴音ちゃんだと言っても過言ではない。違うところと言えば、琴音ちゃんは桃色の長い髪の毛であるが、汐里さんは、ブラウンの長い髪の毛であることぐらいである。
宮部汐里はその胸まである髪を耳にかけてから、コーヒーカップを口につけた。それから、
「もしかして夏目さん、『似てる』って、思ってます?」
そう言った。
朝陽の心臓がドクン、と大きく打った。
「えっ?!」
「ふふ。よく言われるんですよ。あのアンドロイドアイドルの、銀羅琴音。似てるって。結構、ビックリされたりとかして。初対面の人に。」
やはりそうか。
これだけ似ていれば、そりゃ言われるだろう。
朝陽はそう思うのと同時に、安堵した。衝撃的かつ一番気になっていたことを彼女の口から言ってくれたのだ。
「うん、もう、驚きました。ホクロやえくぼの位置まで、そっくりでしたから。あの、実は俺、結構ファンで。」
そう、彼女は俺の彼女だ。
こつこつ貯めて買った小さい彼女は、命より尊い宝物なのだ。
「そういえば夏目さん、この間、私に声をかけてくれた日、あの日、酔っぱらってて、いろいろ教えて下さいましたけど」
「…?いろいろ?」
「ええ。生い立ちとか、いろいろ。」
生い立ち??
酔っぱらった勢いで俺は一体何を喋ったというんだ―!記憶のない自分の失態をまじまじと突き付けられるのは、もはや恐怖すら覚える。背中がぞくりとした。
「生い立ちまで、喋ってたんですね。俺。それはちょっと…恥ずかしいな。はは…。」
「ええ。小学校の頃はサッカーが好きでモテてた、とか、読書が好きで図書館の書物は全部読んだ、とか、医学部卒業したのにバイトしかできないのはそもそも血が怖いからだ、とか、両親が、首を吊って自殺していたのを見た、とか…」
ー!!
いやちょっと待て、いくら酔っていたからといって、俺はそんな事まで話したのか?初対面の女性に―⁉
「え、そ、そんなこと、俺、……言いました?」
「ええ。」
嘘だ。
そんなこと、俺は竜也にすら話したことはない。
いくら何でも、いくら酔っぱらっていたといえど、そんな、ずっと俺の心の中にだけ閉まっておいた出来事を、打ち明けるだろうか。打ち明けるわけがない。
汐里さんが嘘を言っているのかー?
でもだったらなんで知っているんだ。
ということは本当に話したのか?俺が????
ガシャン!!
その時、震えた手がコーヒーカップを落として割れた。
「ごっごめんなさい!」
朝陽はそう言った後、(いいんですよ気にしないで下さい)と言う宮部汐里の口元がスローモーションで動くのを見つめ、視界はブラックアウトしていった。
そして彼女の、少し微笑んだチェリー色の唇の残像が言った。
「好き」
「罪は―――――――――――――。」
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