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海から上がり、服の裾を軽くしぼったあと岩場に立て掛けた自転車で走り出すと、ふんわりとした、のどかでやさしいメロディーが宙に舞い始める。
『エーデルワイス』。住んでいる月追町に朝の七時を知らせている。
僕は鼻歌まじりに音楽を追っている内に、だんだん気分が良くなってきて、ゆるやかに下る海岸線の道路から海と太陽をながめた。
(来るんだ、いよいよ)
今日は『留学生』を高校の、自分のいるクラスで受け入れる日だ。留学生はいつも歳の近い人魚が人の姿となって、町の海域に広がる『海底蒼国』からやってくる。
月追町の海の底には人魚たちが暮らす国があって、日本全国に三つしかない『人魚に会えるまち』の中の一つであるのは知れた話だと思う。
蒼国の呼び名が町民に定着したのは今からおよそ、八十年前。その頃から人魚は人と同じ腕や顔に、へそから下は長いうろこと光る尾ひれに覆われ、上半身に薄絹をまとって生活をしていたそうだ。その薄絹は、地上の技術にはないめずらしい色合いと織り方をしている。さらに人魚には女性が多く、彼女たちはみんな見とれるほど美しいので、全身がまるで芸術品、この世に一つずつしか存在しない宝物といってよかった。
エーデルワイスの一番の放送が終わり、大きなカーブに入る直前、大海原から突き出た八重歯みたいな岩にちらりと目をやった。
ここ半年ほどの間に、見る機会が減ったなと思っていた。人魚を。あの岩のまわりには人魚が休息に訪れると有名で、観光船や漁船が出回る前の今の時間なら、運が良ければひとりかふたりの姿を拝むことができた。僕はしっかりと顔を前に戻し、ハンドルを強く握ると、次第に大きくなる集落の家々に舌打ちしたい気持ちをこらえた。
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