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あれは小学校に上がったばかりの頃だ。明るい満月の晩、海に落ちた僕をつれて安全な浜辺まで帰してくれたのは、髪の長い人魚だった。転落のショックで混乱してはいたけれど、手を引いてくれたのは大人の人魚ではなかったと記憶している。
今日から数日間、学校にやってくる留学生もまた、同世代の人魚だ。人魚に女性が多いからといって、男女のどちらが来るかはまだわからない。
女子であればあわよくば、助けてくれた本人であればいいのにという祈りが、痛みと一緒に心の底からせり上がる。
伝えたい言葉がたくさんあった。今日が近づくほど鮮明に、海水に浸りながら何度も思い描いた言葉の群れを、心の中で夢中で唱えた。
『はじめまして。とは、厳密には言わないのかもしれないけれど』
『僕の名前は翁名 翼』
『生まれた時からずっと、この町で暮らしてる』
それから、それから。
『あの晩は、助けてくれてありがとう』
『今も元気でいられるのは、君のおかげだと思う』
『助けられたのは何年も前の話だけど、思い出す度にガードレールからこの海を見てた』
『なぜかって? それは』
脈の速まる感覚がする。ぐっと胸が締めつけられ、海の中に潜っているわけでもないのに切なくなってきて、眉毛に力を込めた。
『会いたかったんだ』
「ずっとずっと、君にもう一度会いたかった」
無意識に飛び出た声は、濃くなり始めた青空と海から吹き寄せた風にさらわれ、自転車は民家の多い道へと吸い込まれてゆく。
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