二章 恋人役のお仕事

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 アルオニア王子はソファーに腰を下ろすと、隣をぽんぽんと叩いた。 「座ったら?」 「と、隣にですか⁉︎」 「今日から僕の彼女になったんじゃないの?」  王子の瞳が楽しそうに輝いている。子供が、おもしろいおもちゃを見つけたときの目と似ている。  わたしの反応をおもしろがっているのだ。 「正式には彼女ではありません。彼女『役』です!」    わたしはしかめっ面を作ると、『役』の部分に思いっきり力を入れる。 「契約的にはね。だが、君は演技が下手そうだ。普段から本物の彼女のような言動をとったほうが、みんなの前に出たときに自然に振る舞えると思うが?」 「た、確かに……。ヴェサリス執事から、恋人役のプロを目指してくださいと言われました。精一杯、頑張りますっ!」  両拳を作って気合いを入れてから、隣に座る。  すると、またもや王子は笑った。 「僕の隣に座るのに、気合いを入れる人を初めて見た」 「わたしもここまで気合を入れて、人の隣に座ったのは初めてです」  隣に座っている王子との距離は、約二十センチ。意識するには十分な距離。  王子の洗い立ての髪からは、上品なシャンプーの香りがする。真っ白なバスローブから見える、筋肉のついた脚。シャワーを浴びて上気した、滑らかな肌。ゆったりとした息遣い。   完璧王子と噂され、多くの女性が憧れるアルオニア王子が——すぐ隣にいる。  口から心臓が飛び出しそうなほどに緊張が高まり、ざわざわと心が騒ぎだす。   「そういえば君って、普段はなにをしているの?」 「あ、えぇと……」  緊張しているせいで、口の中がカラカラに乾いている。言葉が喉につかえて、出てこない。  口を潤すために、オルランジェが用意してくれた紅茶をひとくち飲んだ。それから、カップをソーサーに置こうとして――。  カチャン!   指が滑ってティーカップが斜めになってしまい、中身をこぼしてしまった。 「すみませんっ!!」  トレーに置いてあったふきんで、すぐさま拭く。  紅茶の大半はカップソーサーにこぼれ、あとはテーブルに少し流れた。  床にこぼれなかったので絨毯を汚さなくてすんだことは救いだけれど、緊張するとミスをしやすい気の小ささが心底嫌になる。 「すみません。ふきんを洗ってきます」 「行かなくていい」 「でも、ふきんにシミが……」 「使用人にやらせる」  場を離れることで、気持ちを切り替えたい。けれど行かなくていいと言われたのに、無視して退出することはできない。  自己嫌悪が強まって、卑下する言葉が胸に渦巻く。 「あの……恋人役のお仕事をくださったこと、感謝しています。期待に応えられるよう、一生懸命に頑張りたいですし、失敗しないでうまくやりたいです。でも……わたしってドジなんです。それに教養がないですし、行儀作法を学んだこともありません。楽しい会話をする自信もありません。きっと、わたしといても退屈するだけです……」  あふれそうになる涙を必死にこらえる。情けなさも、惨めさも、失望も、自分の中だけで抱えたい。同情されるような価値など、自分にはない。   「わたしは、アルオニア様の恋人役にふさわしくないと思うんです。あなたの恋人役になりたい人は、いくらでもいます。素敵な人を彼女役に……」 「リルエ」  王子が、初めてわたしの名前を呼んだ。心臓がとくんと跳ねる。  王子はティーカップを持った。 「行儀作法なら僕が教えてあげる。まずは、エルニシア国の社交の挨拶を教える。親しくなりたいと思う相手に、手ずから紅茶を飲ませるしきたりがある」  王子は紅茶が注がれたカップを、わたしの唇の前に運んだ。 「そうなんですか? 初耳です」 「上流階級だけのしきたりだからね。君が知らないのも無理はない。……飲ませてあげる」  飲ませてもらうなんて小さな子どもみたいで恥ずかしいけれど、相手国のしきたりに逆らうのは失礼だと思う。  わたしは琥珀色に光る液体を見つめ、それから恐る恐るカップに口をつけた。  胸が破裂しそうなほどにドキドキする。王子は、親しくなりたいと思う相手に……と言った。その言葉を、どう解釈したらいいのだろう?  上目遣いに王子を見ると、綺麗なアメシスト色の瞳が楽しそうに揺れている。  王子はゆっくりとカップを傾け、わたしはそれを従順に飲み干した。 「ありがとうございます。おいしかったです」 「ふっ。本当に飲むとは思わなかった」 「えっ?」  王子は長い前髪をかきあげると、我慢できないというふうに笑いだした。 「騙してごめん! 嘘なんだ。君があまりにも緊張しているから、和ませようと思ってね。そんなしきたりなどあるわけないと、反発されるかと思ったのだが、まさか信じるなんて……。君はもう少し、人を疑う心を持ったほうがいい」 「ひ、ひひ、ひひひ、ひっどぉーーいっ!!」  顔から火が吹きだしそうなくらい恥ずかしい。穴があったら速攻入りたい。 「騙すなんてひどいです! あんまりです!!」 「君ってさ、おもしろいよね。オルランジェにお代わりを持って来させるから、もう一回飲ませてあげようか?」 「嫌ですっ!!」  意地悪な笑みを浮かべている王子。  わたしは「失礼しますっ!!」と勝手に話を切り上げて、王子の部屋から退室した。  どこに向かうともなく廊下を走る。  体も心も変だ。騙されたのに、どうして心がふわふわと浮き足立っているのだろう? 心臓がうるさいぐらいに騒いでいるのは、どうして? 「からかうなんてひどい! でも……」  暗く沈んだわたしの気持ちを浮上させるために、アルオニア王子がおかしなしきたりの話をしたと思うのは——考えすぎ……?
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