二章 恋人役のお仕事

7/16
前へ
/50ページ
次へ
 ふらふらとした足取りで家に入ろうとして……視界の端に、見覚えのある顔が映った。  通りに顔を向けると、こちらに向かってくる馬車の御者席にマッコンエルがいる。 「どうして……」  馬車は、わたしの家の前で止まった。馬車から降りてきたのは、アルオニア王子とヴェサリス執事。  驚きすぎて声を出せずにいると、王子はわたしの腕を掴んでいる中年男の腕を引き剥がして、ひねった。 「いてぇっ!!」 「ヴェサリスがお前たちを知っているそうだ。随分と悪どいことをしているそうだね」 「んだとぉーーっ! やってやらぁ!!」  目つきの悪い男が腕を振り上げて王子に向かって行ったが、すぐさまマッコンエルによって背後から羽交い締めにされた。男はあがいたが、マッコンエルはびくともしない。  王子は中年男の腕をひねったまま、マッコンエルに引き渡した。マッコンエルは右腕で目つきの悪い男、左腕で中年男の首を締めつけた。 「いてぇーよっ! 離せ!!」 「はいはーい。あちらでお話ししましょうねー。覚悟してくださーい」  マッコンエルは間延びした話し方で、路地の奥へと二人を連れていく。そこにはヴェサリスが待ち構えていた。 「大丈夫なんですか⁉︎」 「問題ない。マッコンエルは強いし、ヴェサリスは法の世界に通じている。喧嘩でも口論でも、あの二人に勝てない。それに、じきに警察が来る」 「良かった……」  一気に力が抜けて、へなへなと座り込んでしまう。  急転した現実に頭が追いつけない。呆然としていると、気遣う声が降ってきた。 「リルエ、安心して。もう大丈夫」  血の通ったやさしい声色に、涙がふわっと込み上げる。  なにが起こったのか理解できるほどの心の余裕が、ようやくでてきた。  ——蟻地獄に捕らえられ諦めていたわたしを、アルオニア王子が救いだしてくれた……。  助かった。声が届いた。願いが叶った。助けてくれる人がいた。  そのことがどうしようもなく嬉しくて、わたしは泣きじゃくった。  王子は唇を開きかけては、閉じ、言葉を探しているようだった。気休めの励ましや、その場限りの慰めの言葉ではないものを探しているのだろう。  困り顔の王子に、誠実なものを感じる。 「そういえば、どうしてここに?」 「ああ……。屋敷に戻る途中だったのだが、マッコンエルが道を間違えたらしい。彼が道を間違えるのは初めてだ。だが、そのおかげで君を助けることができた。神様が導いてくれたのだろう」  恋愛マニュアルその二、家族を紹介する。を実行するために、マッコンエルがわざと道を間違えたのだろう。恋愛マニュアルのことは、王子には内緒になっている。  王子だけがなにも知らずにいることがおかしくて、わたしは涙目のままクスクスと笑った。  笑顔をこぼしたわたしに、王子はホッとした表情をした。 「気の利いたことを言えなくて、すまない。君を見ていると、僕がいかに恵まれた環境にあるのか思い知る。それなのに窮屈に感じて、不満で心がいっぱいになって……。僕は視野が狭かった。リルエといると学ぶことがたくさんあるし、なにより、知らなかった感情に、戸惑う……」  知らなかった感情とはなんなのか。小首を傾げたわたしから、王子は顔を背けた。
/50ページ

最初のコメントを投稿しよう!

562人が本棚に入れています
本棚に追加