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清掃の仕事を終えて家に帰ると、母の恋人が玄関から出てきたところだった。
塀に隠れ、息を殺す。
父が病死して間もなく、母はアーロンという年下の男と付き合いだした。アーロンは売れない舞台俳優。
アーロンは、オーディションやレッスンに集中するためだといって仕事をしていない。わたしの母が、彼の生活費や衣装代やレッスン費用などすべて出している。
母は借金を作り、わたしは学校を辞めた。
ただでさえ生活が苦しいのに、近頃アーロンは人脈を広げるための交際費が必要だと言っては、ちょこちょこお金をせびるようになった。
借金がどんどん増えていく。それでも母は、恋人に貢ぐことをやめようとはしない。
わたしはアーロンが通りの向こう側に渡ったのを確認してから、家に入った。
「お母さん。アーロンを見たけれど、お金を渡していないよね?」
「ああ?」
掃除をしていない散らかった居間で、母は煙草をプカプカと吸っている。
煙草にべっとりとついている赤い口紅から、わたしは思わず顔を背けた。
「お姉ちゃん……」
居間の扉の影から、妹のジュニーと弟のトビンが顔を覗かせている。
「今日ね、怖いおじさんが来て、借金を早く返せって。返さないなら、家とこの家にあるもの全部差し押さえるって……」
「ジュニー! 余計なことを言うんじゃないよっ!!」
母は荒々しい足取りでジュニーに近寄ると、いきなりビンタした。
ジュニーは十三歳。小柄な体は簡単に吹っ飛んで、床に倒れた。十歳の弟トビンが、自分の体を盾にしてジュニーを庇う。
トビンの健気さが、母の怒りを増幅させる。
「どきなっ! どかないなら、お前も叩くよ!!」
泣くのをこらえた顔で、トビンは頭を横に振った。
母は鬼のような形相で、手を高く上げた。わたしは必死に、その腕を押さえる。
「お母さんっ! やめて、やめてよっ!!」
「リルエの稼ぎが悪いから、こんなことになるんだ!! お前、稼いだ金は全部家に入れているんだろうね⁉︎ 本当はこっそりと使っているんじゃないのか! だからこんなことになったんだ。お前が悪い!!」
「お母さん、目を覚ましてよ! アーロンがいなくても、わたしたちがいればいいじゃない!」
「うるさい!!」
母の怒声に気押されたトビンが、ポタポタと涙を流した。
少し前まで、大声で泣く子だったのに……。いつの間に、声を押し殺して泣くようになったのだろう。
トビンの心に怯えと諦めが根づいてしまったように感じられて、わたしはショックを受けた。
母の腕に縋る。
「わたしもっと働くから、頑張るから……だからこれ以上、ジュニーとトビンを傷つけないで。お願い……」
「ふんっ。借金の保証人はリルエだ。お前が返しな!」
母はわたしの手を乱暴に振り払うと、部屋の奥に消えた。
わたしはすぐさまジュニーとトビンを抱きしめ、二人の頭を撫でる。
「怖い思いをさせてごめんね。でも大丈夫。お姉ちゃんがいるから、安心して。仕事を増やせば、借金なんてすぐに返せるよ。だから安心して。大丈夫」
「お姉ちゃん、本当? 無理していない?」
「無理なんかしていないよ。お姉ちゃんは健康と体力が取り柄だもん。元気が有り余っているから、もっと働こうと思っていたんだ。お姉ちゃんが家にいる時間が少なくなると、二人には寂しい思いをさせちゃうね。ごめんね」
「お姉ちゃん。ボク、大丈夫だよ。ジュニーがいるもん」
「お姉ちゃん……」
わたしの言葉をまっすぐに受け取ったトビンと違って、ジュニーの目が不安でいっぱいになっている。それでもジュニーはなにも言わず、ただわたしの手をギュッと握った。
ジュニーの手のか細さに、胸が締めつけられる。
わたしたちは不安と心細さと恐怖を抱えたまま、黙って、寄り添う。
わたしは早速、職探しを始めた。
仕事を増やせば借金がすぐに返せるなんて、嘘。サイリス国は不況にあえいでいて、学歴のない底辺の人間が仕事を見つけるのはかなり難しい。
清掃員のバイトはようやく就けたもの。でも本当はバイトじゃなくて、給料のいい定職に就きたい。
弟妹と家を守りたいし、できれば二人を学校に通わせてあげたい。
仕事探しに奮闘した甲斐あって、とある屋敷のメイド募集の仕事を見つけた。給料も条件もいい。
早速申し込み、そうして面接当日を迎えた。
◆◆◆
「よし! 身だしなみは大丈夫。あとは自信を持って、受け答えをしよう」
なにがなんでも、メイドの仕事に就かなくてはいけない。
気合いを入れ、家を出る。
川に差し掛かったとき、若い男性が川を覗き込んでいるのに気づいた。
男性の長い前髪が邪魔をして、顔が見えない。けれどうつむいた前のめりの姿勢と、漂っている暗い雰囲気が、否応にも嫌な想像をかき立てる。
「まさか、自殺するんじゃ……」
昔、この川で自殺した男性がいたという話を思い出す。
足が勝手に動いて、川を覗いている男性を引き止めようと腕を掴む。
「ダメですーーっ!!」
「わわっ⁉︎」
驚いた男性が叫び、体勢を崩す。その勢いに引きづられて、わたしも前方に倒れてしまった。
気がついたときには世界が回っていて、わたしは男性とともに川に落ちてしまった。
「なんなんだ、一体……」
川は浅く、五十センチほどしかない。溺れることはないけれど、それでも落ちた反動でぐっしょりと濡れてしまった。
男性に睨まれて、わたしは言い訳をする。
「あの、その、この川で飛び込み自殺をした人がいると聞いたことがあって、だから、その、あなたもそうかと思って……」
「この浅さで?」
「あ……別な場所だったかも……」
男性は呆れたようにため息をつくと、濡れた手で長い前髪をかきあげた。形のいい額と、アメシスト色の綺麗な瞳があらわになる。
冷たい口調に似合うクールな顔立ちと、銀髪。年齢はわたしとさほど変わらないが、彼の醸し出す雰囲気には威厳と聡明さがある。
今まで見た誰よりも綺麗な顔をした男性から、目が離せない。
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