二章 恋人役のお仕事

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 劇が終わり、わたしたちはバルコニー席を出て、ゆっくりと階段を下りていく。  王子が、「肩肘の張らない、自然体でいられる関係っていいな……」と、ぽつりとこぼした。  一瞬、自分たちのことを言ったのかと錯覚してしまった。わたしも同じことを思っていたから——。  けれどすぐに、王子は芝居の感想を述べているだけだと思い直す。 「わたしもそう思います」 「リルエも?」 「はい。いいお芝居でした。前半は喧嘩ばかりでハラハラしましたが、互いにそのままの自分でいられるって、素敵な関係ですね。役者さんのお芝居が上手で、のめり込んでしまいました」  王子は妙な間を開けてから、「芝居の話ではなく……」と呟いた。劇を見終えた人々でロビーはごった返していて、王子の声はかき消されてしまった。  劇場を出たところで、ふと、左前方を見た。その瞬間、頭から冷や水を浴びせられたような恐怖が全身を駆け巡る。  ——母の恋人であるアーロンが、いる。  楽しかった気分が一瞬で弾ける。  考えてみれば、ここにアーロンがいてもなんら不思議ではない。彼は売れない舞台俳優。今日の舞台に出ていなかったけれど、もしかしたら舞台裏で働いていたのかもしれないし、または客として劇を見に来ていたのかもしれない。  観劇デートに浮かれていて、アーロンの存在を忘れていたわたしが浅はかだった。    アーロンの顔には、悪い男の見本のような笑みが張りついている。アーロンの視線がわたしから、隣にいる王子に移った。 「早く行きましょう!!」  王子の返事も待たずに、わたしは駆け足で馬車乗り場に向かった。  エスコートしようとする王子の手を取ることなく、急いで馬車に乗り込む。 「どうしたの?」  突然態度がおかしくなったことを王子は訝しんだが、わたしはなんでもないと言って、口を閉ざした。  張り詰めた静かさが、馬車の中に充満する。  王子の眼差しから、わたしが話すのを待っているのを感じる。けれどわたしは、アーロンのことも母のことも話したくない。  アーロンは人の顔と名前を覚えるのが得意だし、芸能通だ。わたしの隣にいたのが、エルニシア国のアルオニア王子だとわかったはず。  劇場前は、芝居を見終えた客たちであふれていた。アルオニア王子が、わたしの隣にたまたまいただけだと、そう思ってくれたらいいのだけれど……。  母にアルオニア王子のことを話し、お金をたかるように仕向けたら最悪だ。  アーロンはずる賢いし、口がうまい。母はアーロンに言いくるめられて、親戚中を回ってお金を借りたことがある。  親戚に借りたそのお金は母一人では返すことができなくて、結局わたしが学校を辞めて働くことになった。  わたしは柔らかな座席に背中をもたせて、視点の定まらない目で風景を眺めた。  王子は「困ったことがあれば言ってほしい。頼ってほしい」そう言ってくれた。  けれど、どう頼ればいいというのだろう。  母を恋人から引き離してほしい? アーロンの言いなりになっている母を叱ってほしい? 母がアルオニア王子の屋敷に行ってお金をせびっても、貸さないでほしい? 親戚から借りたお金をまだ全額返せていなくて、どうしたらいいでしょう?  王子の反応が怖くて、言えない。なにより、母のことで迷惑をかけたくない。  わたしは覚悟を決めると、重い口を開いた。 「恋人役の契約を、解消しませんか……」
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