二章 恋人役のお仕事

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「なぜ?」 「デートをして、わかったんです。わたしは、きらびやかな世界にいていい人間ではありません。居心地が、悪いんです。頑張ったけれど、楽しめませんでした。わたしには無理です」 「なにかあった?」 「劇場という華やかな場所に行って、住む世界が違うことを痛感したんです」 「それは、君の本心? 本当は別なことが心にあるんじゃないの?」  込み上げる涙を押し留めるために、笑おうとした。けれど頬が引き攣って、うまくいかない。劇場では、顔の筋肉が痛くなるくらいたくさん笑えたのに……。   「契約期間はまだ残っている。どんな仕事でも精一杯頑張るんじゃなかったの?」 「ごめんなさい」 「謝罪を聞きたい訳ではない。俺といるのは、つまらない?」  黙っていると、王子はまた「俺といるのは、つまらない?」と繰り返した。 「そういうわけでは……。でもこれ以上は無理なんです。ごめんなさい」  馬車が屋敷に着いた。わたしは馬車から降りると、頭だけ下げた。涙があふれてきて、別れの挨拶を述べることができなかった。  一目散に、屋敷の外に向かって走った。 「痛っ!!」  慣れないハイヒールを履いているため、思いっきり転んでしまった。ドレスが土で汚れ、擦った膝頭に血が滲む。  人の往来のある道で号泣するわけにはいかず、ジクジク痛む足を引きずって、川辺まで歩いた。  王子と一緒に落ちた川に、否応にも思い出してしまう。あのときの王子は、素っ気ない態度と、冷ややかな目をしていた。  今日のデートの王子と全然違う。目尻の下がった、やさしい笑顔を向けてくれるようになったというのに……。  屈託のない笑顔をもう見られないかと思うと、胸が張り裂けそうなほどに痛くて、胸元を押さえてうずくまった。嗚咽がこぼれる。    アーロンが一流の俳優になることを、夢見ている母。わたしも王子といることで、お姫様になった夢を見ていた。  母のようになりたくないと思っていたのに、結局、同じことをしていた。  もう、夢を見るのはやめよう。目を逸らすことなく、現実を見よう。  契約に基づいた役柄も、恋の魔法も、いつか解けるときがくる。  どんなに優しくされても、楽しい時間を過ごしても、それは恋人役という演技にすぎない。わたしと王子の間に本物の恋は存在しない。  わたしは、日が暮れるまで川辺にいた。そうして疲れ果てた身体と心を引きずって、ジュニーとトビンの待つ家へと帰った。
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