三章 恋人役のレッスン

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三章 恋人役のレッスン

 清掃の仕事が休みの日に、ヴェサリス執事を訪ねた。テーブルの上に封筒を置く。 「恋人役の仕事を辞めます。申し訳ありません。お金をお返しします。全額でなくて申し訳ないのですが……。残りも必ずお返しします」 「なにがあったのですか?」  ヴェサリスの(うれ)いげな表情から、わたしを心配しているのが伝わってくる。  それでもわたしは、本音を口にだせずにいる。  本当はもう、一人で抱え込むことに疲れていた。打ち明けたい。頼りたい。そう思っていても口を閉ざしているのは、やさしく親切な人たちに迷惑はかけられない。その一心だった。 「なにもありません。ただ、恋人役の契約を解消したいんです」 「ですが、アルオニア様は恋人役の解消を認めないとおっしゃっています」 「ですがこれ以上は、無理なんです。わたしは、アルオニア様の隣にいていい人間ではないんです」 「ご自分の価値を、見誤らないでください。失敗したり、ドジを踏んだりして落ち込んでいるのでしたら、気にしないでください。それがかえって、アルオニア様を癒しているのですから。あの方は常に毅然とした態度をとるよう求められ、物事を完璧にこなしています。緊張を解く暇がないのです。アルオニア様にとってリルエさんは、くつろげる存在なのです」  ヴェサリスはこうやっていつも、わたしを励ましてくれる。自信を持たせようとしてくれる。  それでもわたしは、首を横に振った。  頑なな態度に、ヴェサリスは説得するのを諦めたように深い吐息をついた。それから、窓辺に立って外を眺めた。 「わかりました。ですが、わたくしはアルオニア様にお仕えする身。主人の願いを叶えるのが仕事です。アルオニア様は恋人契約の続行を望んでいる。それなのに、契約解消を勧めるわけにはいきません。ですが裏から手を回して、契約を解消する手助けをすることはできます」 「本当ですか⁉︎」 「はい。要は、アルオニア様に嫌われればいいのです」  振り返ったヴェサリスの顔には、午後の日差しが当たって陰影ができている。 「嫌われる……」 「はい。恋愛マニュアルの反対をいきましょう。嫌われマニュアルを作ります。リルエさんは、それに従って動いてください。アルオニア様に嫌われる行動をとれば、契約解消できるでしょう」  胸がチクリと痛んだ。けれどそれに気づかないふりをして、「よろしくお願いします」と頭を下げたのだった。  エントランスでマッコンエルに出会った。なにも知らないマッコンエルは、陽気な笑顔で片手を上げた。 「今日は勉強の日だろう? 今から、ジュニーちゃんとトビンを迎えにいくところなんだ。リルエちゃんは屋敷に残って、みんなと夕食を食べるよね?」 「わたしは帰ります」 「え? どうして?」    頼りがいのある兄のような存在のマッコンエルに、張り詰めていた気持ちが緩み、耐えていた感情が一気に噴きだす。 「わたし、あの……どうしよう……」 「わー、リルエちゃん!! どうしたっ⁉︎」  突然泣きだしたわたしに、マッコンエルが慌てふためく。 「なにかあったの⁉︎」 「わたし……」  泣き顔を見られたくなくて、両手で顔を覆う。  胸がなぜチクリと痛んだのか、本当はわかっている。  ——王子に、嫌われたくないのだ。  母のことを打ち明けられないのも、迷惑をかけたくないと思うのも、すべては、嫌われたくないから。嫌われるのが怖いから、嫌われる前に、恋人役の解消をして離れようとしている。  それなのに、契約解消のために嫌われないといけないなんて、滑稽だ。  マッコンエルは、泣き止まないわたしをしばしの間抱きしめてくれた。背中をポンポンと叩かれる。 「なにがあったかわからないけどさ、困ったことがあるなら、アル王子に話してごらんよ。相談に乗ってくれるから。俺が聞いてもいいけど、嫉妬されるとまずいからさ」 「大丈夫です。ごめんなさい」 「あっ!!」  マッコンエルはびくりと体を震わせると、感電したかのように乱暴に身を引いた。 「ヤバいっ!!」 「え?」 「見られてはいけない人に、見られてしまったぁーー!!」  振り返ってエントランスの奥に目をこらしたが、そこには誰の姿もなかった。けれど、足早に去っていく靴音が響いていた。
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