三章 恋人役のレッスン

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 ヴェサリスから嫌われマニュアルの指示がないまま、時間は過ぎていく。恋人役の契約期間は四ヶ月あったのに、あっという間に残り二ヶ月となった。  二ヶ月後には王子は大学を卒業し、母国に帰る。    母はいまだに家に帰ってこず、王子の屋敷にも来ていないようだった。  わたしは清掃の仕事中、しばしば校内でアルオニア王子を見かける。涼やかな銀髪と、冷ややかな目。シャープな顎のラインと、背筋の伸びた長身。淡々とした立ち振る舞い。  女子生徒らの好意の視線を一身に浴びているというのに、笑顔のかけらもない。  劇場デートで見せてくれた、あの屈託のない笑顔はなんだったのだろうと不思議に思うほどに、大学での王子は愛想がない。  空き教室の机を拭いていると、廊下を通り過ぎる女子生徒の話し声が聞こえてきた。王子の名前が聞こえた気がして、手を止める。 「卒業パーティーで、アルオニア王子と踊りたいのに……。大事な人ができたって聞いたけれど、誰なんだろう?」 「シェリアじゃない?」 「それがさ、シェリアもダンスのパートナーを断られたんだって!」 「そういえば、アルオニア様が国立劇場で同年代ぐらいの女性とデートしていたって、噂を聞いたよ。それを聞いたシェリアが大激怒しているらしくて、相手は誰なのか調べているらしい」 「こわっ!!」 「絶対に許さない。二度とデートできないようにしてやるって、息巻いているらしいよ」 「シェリアだけは敵に回したくないわー」  女子生徒たちの声が遠ざかっていく。体育館トイレでのいじめを思い出して、胃がキリリと痛んだ。  その日のうちに、上司に、家族が病気になって看病をしないといけなくなったと嘘をつき、勤務日数を減らしてくれるよう頼んだのだった。  ◆◆◆    大学でアルオニア王子と話すことはないけれど、王子はジュニーとトビンの勉強を見てくれているので、屋敷では頻繁に会っている。  恋人役の契約が解消されていない宙ぶらりんな状態で、わたしと王子は顔を合わせる。交わす会話は差し障りのないものだけれど、肩の力が抜けたせいなのか、ようやく緊張することなく自然に話せるようになった。  あるとき、夕食の席で誕生日パーティーに誘われた。 「来週、僕の誕生日なんだ。屋敷の者のみで、パーティーをしたいと思っている。リルエとジュニーとトビンも、参加してくれる?」 「でも……」 「わー! いいんですか!!」 「やったぁ! 楽しみ!!」  無邪気に喜ぶ、ジュニーとトビン。二人ともパーティーに参加する気満々なので、断れなくなってしまった。  その日の夜。布団の中で、ジュニーとトビンに尋ねてみる。 「誕生日プレゼント、どうするつもり?」 「私は、手作りのマスコット人形をプレゼントするよ」 「ジュニーは手先が器用だものね。どんな人形にするの?」 「クマだよ」 「ボクはね、絵を描く! お花の絵を描いてプレゼントするんだ!」 「トビンは絵が上手だものね。アルオニア様、きっと喜ぶよ」 「お姉ちゃんはどうするの?」  迷っている心情を吐きだすように、わたしは「うう……」と唸った。 「なにも思いつかなくて困っているの。高価なプレゼントをたくさんもらっているだろうから、わたしが買える範囲のものじゃ喜ばないと思う」 「だったら手作りにしたら?」 「ボク、お姉ちゃんが作ってくれるお菓子大好きだよ」 「お菓子……いいかもね!」  翌日。オルランジェに相談すると、嬉々として、大量のお菓子本を貸してくれた。 「本がこんなにたくさん⁉︎ どれにしようか迷っちゃう!」 「ふふっ。アル王子、ああ見えて甘いものが好きなのよ。勉強で頭を使うからから、脳が甘いものを欲しがるのでしょうね。特に、マフィンを好んで召し上がるわ」 「マフィンなら、わたしにも作れそう!」  手作りマフィンをプレゼントすることに決め、大量のレシピ本とにらめっこする。 「この中で一番おいしいものを贈ろう」 「リルエちゃん。付箋をたくさん貼っているけれど、まさかそれ全部、作るわけじゃないわよね?」 「作ります。だって、作らないと味がわからないもの」 「きゃあ〜!!」  オルランジェは頬をピンク色に染めると、瞳を好奇心いっぱいに開いた。 「愛ね、愛だわ!! 好きな男のために頑張る女の子、大好きよ! 全力で応援しちゃう!!」 「そんな大袈裟なものじゃないですっ!」 「照れなくていいから。材料はこちらで用意するからね」 「ありがとうございます! 助かります」  そういうわけで、わたしは毎日屋敷に通った。レシピ本を見ながら、材料や作り方の異なるマフィンを作り続ける。  出来上がったマフィンを、使用人たちは喜んで食べてくれた。けれど次第に、断られることが多くなった。  マッコンエルに頼む込む。 「皆さん、もうこれ以上はマフィンを食べたくないと言うんです」 「だろうね。マフィンってさ、たまに食べるからおいしいんであって、毎日食べるものじゃないんだ。食いしん坊の俺でも、さすがに胸焼けがしてきた」 「でもわたし、一番おいしいマフィンをアルオニア様にプレゼントしたいんです」  マッコンエルは困った顔して頭を乱暴に掻くと、わたしの肩に両手を置いた。 「リルエちゃん! 二十番目のマフィンがおいしかった。それにしよう!!」 「でも……。まだ作っていないマフィンが十個あるんです。それを食べてから、決めてもらえませんか?」 「うぉぉぉぉーっ! リルエちゃんってば、可愛い顔して頑固なんだから! 山ほどのレシピ本を貸したオルランジェを恨むぜ!!」  マッコンエルに迷惑をかけていることは重々承知ながらも、舌が肥えているであろうアルオニア王子を喜ばせたい一心で、マッコンエルにマフィンを食べてもらった。  その結果、マッコンエルもわたしも、二十二番目に作ったマフィンが一番おいしいということになった。
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