三章 恋人役のレッスン

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 優美な音楽に合わせて、使用人たちがスローステップを踏んでいる。ジュニーはマッコンエルと、トビンはオルランジェと踊っている。  アルオニア王子を探すと、部屋の隅でグレースと話していた。 「先生と踊るのかな? 良かった」  ほっと胸を撫で下ろしていると、王子がわたしに気づいたようで、こちらに向かって歩いてきた。  固まっているわたしに、王子が手を差し出した。 「リルエ、踊ろう」 「でも、わたし、一度も踊ったことがなくて……。どうしたらいいのかわからないので……」 「お姉ちゃん、大丈夫だよ! トビンを見てよ!!」  ジュニーに声をかけられて、トビンに目をやる。  トビンは体をくねくねと動かし、さらにはお尻も振って、周囲の笑いを誘っている。  十歳の男の子らしい元気な動きに、ダンスのパートナーであるオルランジェは涙を流して笑っている。わたしも声を上げて笑った。 「トビンってば、おもしろすぎる! そうだ……。トビンって、そういう子だったな……」  トビンには我慢させてばかりで、いつの間にかおとなしい子になってしまった。けれど、小さい頃はおふざけ好きのヤンチャな子だった。  本来の天真爛漫なトビンに戻ったようで涙ぐんでいると、王子がわたしの右手をとった。 「トビンのように、自由にダンスを楽しもう」 「でも……」  手を掴まれ、部屋の中央に連れていかれる。波が引いていくように、使用人たちが場所を譲る。  窓の外の闇が、サイドテーブルに置かれたオイルランプを幻想的に浮き上がらせ、蓄音機のホーンからは管弦楽の美しい旋律が流れてくる。  わたしを見つめる、やさしい瞳の王子様。  夢を見るのはやめて、現実を見て! 警告音が、頭の中で鳴り響く。  でも——。王子の体温に触れ、息遣いを感じて、ダンスをするこの時間だって、紛れもない現実。決して夢なんかじゃない……。 「リルエ。僕の肩に手を置いて」  言われるがままに、左手を王子の肩の上に置く。王子の手がわたしの腰に回され、距離がぐっと縮まる。  王子のつけている香水が鼻をかすめる。クールな王子に似合う、冷涼感のある香り。けれど残り香は甘くて、わたしを陶酔状態に誘う。  ゆったりとした音楽に合わせて、体を左右に揺らす。  スローテンポの音楽が終わり、次に流れてきたのは明るいアップテンポの曲。使用人たちが歓声をあげ、ステップを早めた。体を大きく動かし、情熱的に踊りだすみんなに、わたしは慌ててしまう。  するとオルランジェが横に来て、わたしの耳元で「派手に転んで!!」と指示をだした。 「どうしよう!」 「リルエ?」 「あの、わたし……」  もう、どうでもなれっ!!  強引に体を横に倒して、派手に転ぼうとした。  なのに、腰に回っている王子の手がそれを許さない。わたしの腰を強く抱きかかえて、転ばせてくれない。  それならばと、足をよろけさせた。王子は「おっと!」と声を上げると、わたしを抱き寄せた。  密着する体温。耳元で囁かれる。 「僕とくっつきたくて、わざと転ぼうとしている?」 「ち、違いますっ!!」 「では、僕にかまってほしくて転ぼうとしている?」 「それも違います!!」 「じゃあ、なんでわざと転ぼうとしているの?」  バレている……。わたしって、演技が下手すぎ。  楽しそうにクスクスと笑った王子の吐息が耳にかかる。爽やかで甘い香水の香りが鼻をくすぐり、広くて逞しい胸に心臓が早鐘を打つ。  こんな現実、夢でさえ見たことがなかった。
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