三章 恋人役のレッスン

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 雲の切間から覗く三日月が、凛とした輝きを放っている。涼しい風が吹く、美しい夜だった。  アルオニア王子はテラスにある長椅子に腰掛け、ガーデンライトが照らす庭を見ている。  端正な顔立ちに夜の神秘さが加わっている。右サイドに流している前髪が夜風にサラサラと流れている様はとても美しく、銀色の髪は今夜の三日月によく似合っている。 「カクテルをお持ちしました。どうぞ」 「ありがとう」 「……わたしも、ご一緒してもいいですか?」 「ああ」  円卓に、グラスを二つ置く。炭酸の弾ける青いカクテルは、アルオニア王子。オレンジ色のカクテルは、わたし。  わたしは王子の座っている長椅子の端に、ちょこんと腰掛けた。  マッコンエルが考えた嫌われマニュアルは、『アル様は、酔っ払いと積極的な女性が嫌いだ。だから、酔っ払ったふりをして強引に絡んじゃえ!』という無謀なもの。  わたしはお酒を飲んだことがないし、強引な性格でもない。うまくいく気が全然しない。それに、本当に酔っ払ってしまったら大変だということで、オルランジェはわたしのカクテルをノンアルコールにした。  そんな状態でどうやって酔っ払いの演技をすればいいのだろうと頭を悩ませていると、視線を感じた。王子がわたしを見ている。 「なにか?」 「リルエに恋人役の仕事を持ちかけたこと、悪かったと思っている。だが……」  王子は顔を前に向けた。わたしも、ガーデンライトに浮かび上がる庭を眺める。 「何度やり直しても、僕はやはり……君を、恋人役の仕事に誘うんだろうな……」 「仕事をくださって、とても助かりました。全然悪くないですよ」  笑顔でそう言ったのに、王子の表情は晴れない。憂いが心を占めているようで、声に張りがない。 「どうしたのですか? なにか心配事でも?」 「まぁ……」  王子の綺麗に澄んだアメシスト色の瞳が、切なげに揺れている。  歯切れの悪い話し方に、言いたくないのだろうと察する。いつものわたしなら、ここで止める。無理に聞きださない。  けれど、嫌われマニュアルを実行するには絶好のチャンス。  わたしはオレンジ色したカクテルを一気飲みして、グラスを空にした。オレンジジュースの味が強くて、酔った感じが全然しない。 「あのですねぇ!!」 「ん?」 「心配事があるなら、言ってください! どんな相談にも乗りますっ!!」  わたしらしくもない力強い物言いに、アルオニア王子はポカンと口を開けた。 「リルエ、突然どうしたの?」 「アルオニア様が悩んでいるようなので、相談相手になりたいだけです! っていうか、わたし、酔ってしまったみたいですっ!!」  ……恥ずかしい。本当は全然酔っていないのに。  どんな顔をしていいかわからなくて、額を膝につけるぐらいに深々と上半身を折り曲げる。作戦がうまくいっているのか確かめてみる。 「話したくないことを、無理矢理に聞き出そうとしています。これって、強引ですよね?」 「そうだね」 「酔っ払いは嫌いですか?」 「ああ」 「わたし、本当はすっごく強引な性格なんです。それに酒癖も悪いです。最悪ですよね?」 「リルエが? 言わされている感がすごいんだけど」 「違います! これがわたしの素です!!」  上半身を起こし、王子との物理的距離を縮めてみる。 「ほら!! 強引でしょう!」 「僕にくっつきたいの?」 「そういうわけではないです!」 「じゃあどうして、体を寄せてきたの?」 「酔っ払っているからです!!」 「ふーん……。酔った人って、自分は酔っていないって言うものだけど」 「えぇっ⁉︎」  王子の唇が弧を描いて笑った。 「本当に酔っ払っている?」 「……本当です」  王子は、わたしのグラスを手に取った。半透明のオレンジ色の液体がわずかに残っている。 「飲んでみてもいい?」 「わー! ダメですダメです!! ごめんなさい。嘘です。酔っ払っていません!!」 「ハハっ!」  酔っ払い作戦も失敗してしまった。最初から、うまくいく気が全然していなかったけれど。  わたしはため息とともに緊張を解くと、ヴェサリスに渡された紙をスカートのポケットから出した。  ヴェサリスは、次になにをすればいいか書いたと話していた。 【リルエさんへ あなたが変なことをしても、アルオニア様は嫌な顔をしないでしょう? アルオニア様はあなたを嫌ったりしません。ですから怖がることなく、つらい胸の内を話していいのです。アルオニア様は受け止めてくださるでしょう。 良いときばかり親しくするのが、人間関係ではありません。困ったとき、つらいとき、悲しいとき。そういうときに支え合える間柄こそ真の人間関係だと、わたくしは思います。 リルエさんに必要なのは、一人で問題を抱え込む我慢強さではありません。相手を信頼して打ち明ける、勇気なのです】  頼ることも甘えることもできないわたしの性格を、ヴェサリスは理解したうえで、嫌われマニュアルを提案してくれたのだ。怖がらなくていいと、教えるために。  胸が熱くなって、涙がポロポロとこぼれる。  挙動不審に転ぼうとしても、下手くそな酔っ払いの演技をしても、アルオニア王子は笑ってくれた。その明るさとやさしさを信じて、心を開いてみよう。  わたしは鼻を啜ると、涙目のまま王子を見上げた。 「話したいことがあります。わたしの母と、その恋人のことです」
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