三章 恋人役のレッスン

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 屋敷に灯っていた明かりが、ひとつずつ消えていく。夜が深まるにつれ、闇が濃くなり、庭に点在する照明が幻想的に浮かびあがる。 「母の恋人のアーロンは、ずる賢い人です。今はまだ動きがないですけれど、お金に困ったら必ず、せびりに来ると思うんです。それも自分ではなく、母にやらせて。わたしが怖いのは、お金を渡すのを断ったら、根も葉もない話を流されること。アルオニア様にも火の粉が飛んで、あなたのありもしない話を情報屋に流されるなんて嫌です。だから……わたしと一緒にいないほうがいいんです」  笑顔を作る。ぎこちなくても、精一杯笑って、なんでもない風を装う。 「そういうわけで、恋人役を解消しましょう。そしたら母が来たときに、アルオニア様とはなんの関係もないってキッパリと言えます。アルオニア様も、母が来たら、わたしとはなんの関わりもない。知らない女性だって断ってください」 「知らない女性……」 「はい。国立劇場で一緒にいるところを見られましたけれど、あのとき話していたわけではないでしょう? だから、たまたま隣にいただけだって押し通しましょう」 「リルエはそれでいいの?」 「はい。これが一番いい方法なんです。迷惑をかけたくありません」    胸がズキリと痛む。でも、大丈夫。胸の痛みはいつか消える。 「そのうち、母の目が覚めると思うんです。母は本当は、愛情深いやさしい人なんです。恋人と別れたら、昔のやさしかった母に戻ってくれる。そう信じています。だから……契約を解消しましょう」 「悪いけど、契約解消はできない」 「どうして?」 「君は知らない女性なんかじゃない。それなのに、知らないふりなんかできない。迷惑なら、僕だってかけている。女除けが必要だと言って、仕事を持ちかけた。リルエがお金に困っているのを利用したんだ。君はなにも言わないけれど、学校で嫌な目に遭っているんじゃない?」 「それは……」  否定も肯定もできなくて、黙り込む。  王子は深く息を吐きだすと、肩を落とした。 「川でリルエに会った日。僕は生きることが嫌になっていた。兄は好き勝手に生きていて、まわりはそれを諦めた目で見ながら、僕に期待をかけてくる。自由奔放な兄にも、勝手なことばかり言う人たちにもうんざりしていた。逃げ場のない追い詰められた気持ちで、川を見ていた。そしたら、突然川に落とされたものだから驚いたよ」 「すみません……」  王子は小さく笑った。夜風に銀髪がサラサラと揺れる。  自嘲気味に話していた口調が、柔らかくなった。 「お金が必要だからなりふりかまっていられない。そう言って君は、濡れたまま走っていった。気になって後を追ってみたら、仕事をくれるよう、ヴェサリスに頭を下げていた。ああいう必死さは、僕にはない。ひたむきな姿が輝いて見えた。僕は、大人が敷いたレールの上を文句を言いながら走っているだけ。リルエといると知らなかった感情が沸いてくる。人生を自分で決めたいと考えるようになったし、守る喜びを知った」  庭を見ていた王子の視線が、わたしの上に注がれる。 「リルエにはいいところがたくさんある。素直なところや謙虚さが好ましいし、不器用だからこそ一生懸命に頑張っている姿を応援したくなる。妹と弟のことを大事にしているところも魅力的だ。それに、リルエとは一緒にいても窮屈じゃない。自然体の自分でいられることに驚いている」  愛の告白のような言葉の連なり。嬉しい気持ちを覆うように、不安で胸がざわつく。  王子の表情は物憂げだ。悩みを抱えているらしいことが、伝わってくる。 「あの……なにか、あったのですか? 悩んでいるように……」 「リルエは、僕のことをどう思っている?」 「えっ?」  物憂げな様子を消し、王子はひょうきんに片眉を上げた。 「リルエは、マッコンエルのほうが好きなんだろう?」 「ええ⁉︎ 頼りがいのある兄のように思っているだけで、別にそんな……」 「マッコンエルに抱きしめられて喜んだんじゃないの?」 「どうしてそんなことを……あっ!!」  ヴェリサスに嫌われマニュアルを提案された日。王子に嫌われるのが悲しくて、マッコンエルの前で泣いてしまった。マッコンエルは号泣するわたしを宥めるために、抱擁してくれた。  マッコンエルが「見られてはいけない人に見られてしまった!」と騒いでいたけれど、相手はアルオニア王子だったらしい。 「あれは、そういうんじゃなくて……っ!!」    王子の腕が伸びたかと思うと、驚きの声をあげる間もなく、抱きしめられた。 「すごく腹が立った。だから上書き」 「上書きって⁉︎」 「それに、リルエには振り回されてばかりいるからね。たまには僕も、リルエの気持ちをかき乱したい」  涼やかな風が葉をサワサワと揺らす、静かな夜。静かすぎて、うるさく騒ぐわたしの心臓の音が聞こえてしまうんじゃないかと心配になる。 「契約解消はしない。安心して。君のことは、俺が守る」  守る——。初めて、言われた。  涙が込み上げ、肩が震える。啜り泣くわたしの頭を、王子は撫でてくれた。  この抱擁を、嬉しく感じる自分がいる。けれど頭は芯は冷えていて、逃れらない現実を突きつけてくる。  もしもわたしと王子の気持ちが通い合ったとしても、うまくいくことはない。学歴も教養も品格もない貧しい身分の者が、歴史あるエルニシア王室の中に入っていくなど、許されない。  一緒にいるのがどんなに楽しくても、嬉しくても、幸せでも、あと一ヶ月半で離れ離れになり、もう会うことはない。  それでいいのだと思う。わたしでは釣り合いがとれない。身分の差は越えられない。  早いリズムで刻む心臓の音を聞きながら、この人を絶対に好きにならない。この関係は仕事だと割り切ろうと、思いを強くした。
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