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大学のトイレで、シェリアとその友人にいじめられたとき。おとなしく従えば早く解放してもらえると思って、言いたいことを全部飲み込んで、耐えた。
解放された後に味わったのは、自分を嫌いだという惨めな気持ち。自分の弱さも嫌いだけれど、弱い心を責める卑屈な自分も嫌だった。
自分に自信が持てない。自分を好きになれないと、グレースに話したことがある。グレースはこう答えた。
「自分の人生の責任は、自分にしかとれません。理不尽なことがあったとしても、思考、感情、言葉、眼差し、態度、行動。これらは自分で選んでいる。なにを思うか、なにを言うかで、物事は変わっていく。アルオニアのパートナーとして認められたいのなら、相手にも、自分の感情にも振り回されてはいけません。どんなときでも、常に一歩先の未来を見据えて冷静に行動なさい。決して、泣いたり感情を高ぶらせたりしないこと。それがアルオニアの隣に立つことが許される人間の行いです。自分の人生を他人に渡すのではなく、自分で責任をとる覚悟ができたとき、あなたは自分を誇りに思うことができるでしょう」
思考に耽っていた頭上に、シェリアの高圧的な声が降ってくる。
「黙り込んでどうしたの? 頭が悪いから、私の言ったことが覚えられない?」
「違います」
わたしは立ち上がると、深く息を吐き出し、シェリアを見据えた。
「シェリアさんに嫌な思いをさせてしまったこと、謝ります。けれど、調子に乗ったわけではありません。貧乏を利用したわけでもありません。誤解を解かせてください」
「はぁ? 貧乏庶民の話なんて聞きたくないわ! 私と対等に話をしようだなんて、生意気よっ!!」
激昂したシェリアが手を振り上げた。
パシンっ!!
鋭い音とともに、左頬に熱い痛みが走る。
タトューを上腕に入れた男が胸ポケットから何かを取り出し、シェリアに放って投げた。
「手こずってんじゃん。いいモノを貸してやるよ!」
シェリアは手の内に収まったモノを見つめ、唇の端を綺麗に上げた。
「あなたたちに渡す前に、私が手を下したほうがいいわね。身分をわかっていない、馬鹿な女にはお仕置きが必要だわ」
シェリアは折り畳んであるモノを広げた。部屋の照明に当たって、ナイフが鈍く光る。
男がシェリアに渡したモノは、折り畳みナイフだった。
恐怖が全身を駆け抜け、二、三歩後ずさる。喉が引き攣って、声が出ない。
「綺麗におめかしをしたんですものね。せっかくだから、その顔に傷をつけてあげるわ。それから、ここにいる男たちと思う存分に遊んだらいいわ」
「……な、なんで……」
「私、言ったはずよ。私の視界に汚いものを入れたくないと。あなたが存在すること自体、目障りなの」
ドアの前にいるシェリアを押し退けて、逃げようとした。だがシェリアに髪を引っ張られ、ドアに辿り着けない。争っている間にタトゥーを入れた男がやってきて、私を羽交い締めにした。
「やめてくださいっ!!」
「なんの取り柄もない馬鹿な女のくせに、悪巧みをして、アルオニアの使用人に近づきました。シェリア様に迷惑をかけてすみませんでした。アルオニアに二度と近づきません。彼を好きじゃありません。……そう言ったら、ナイフをしまってあげてもいいわ」
「……ここから、出してくれるのですか?」
シェリアは私の背後にいる男を見た。羽交い締めにしている男が喉奥でククッと笑った。
「そうね。考えてあげてもいいわ」
「……嘘ですよね」
どのみち不幸な結末になるのなら、嘘をつきたくない。泣き喚く姿を、シェリアに見せたくない。弱い自分とさよならしたい。
わたしは真正面からシェリアを見つめ、凛と言い放った。
「わたしは、アルオニア様が好きです。釣り合わないとわかっていても、それでも、好きになったことを後悔はしていません!!」
「あんたねぇっ!!」
部屋のチャイムが鳴った。
誰かが、わたしがシェリアと歩いているのを見て、ヴェサリスに教えてくれたのでは……と、一縷の望みにかけた。
けれどチェーンのかかったドアの向こうに見えた顔は、シェリアの友人、ガーネットだった。
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