一章 王子様との出会い

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 いじめられた悲しさと、絵を取り戻せた嬉しさとで、涙が止まらない。  泣きじゃくるわたしを、アルオニア王子は大教室に引き入れた。 「助けてくれて、ありがとうございます……」 「別に、たいしたことはしていない」  わたしがいじめられていたとき。大教室の中に残っていた生徒たちは、素通りしていった。  誰もが気まずそうに顔を背けた。同情のこもった目はしていたけれど、シェリアたちに関わりたくないとばかりにそそくさと帰っていった。  アルオニア王子だけが、見て見ぬふりをしなかった。  わたしは涙を拭くと、精一杯の笑顔を浮かべた。 「とても嬉しかったです。ありがとうございます」  西日のせいで、アルオニア王子の顔がオレンジ色に染まっている。  王子の無表情さがほんの少し、崩れた。感謝されて照れてしまった、とでもいうように——。  けれどすぐさま、王子は冷めた表情に戻った。 「たいしたことはしていない。気にしなくていい」  この大学で清掃員の仕事を始めてから、三年になる。シェリアたちほど目立っていじめてくる生徒はいなかったけれど、良家の子女たちにとってわたしは憐れみの対象だった。  アルオニア王子は冷めた目をしているが、それはわたしだけじゃない。シェリアにも同じ目を向けていた。  学歴のない貧しいわたしにも、教養のあるお嬢様のシェリアにも、同じ目を向ける王子。差別しない王子に、信頼に近しいものを感じる。 「あの……。シェリア様は、王子と親密度が増した。婚約者に選ばれるかもしれないと話していましたが、本当ですか?」 「バカバカしい」  王子は心底くだらないというように、端正な顔に嫌悪の色を浮かばせた。 「彼女の父親は貿易の仕事をしている。我が王家と関わりがあってね。その繋がりで、パーティーで何度か踊っただけだ。それだけで親密度が上がったとは、迷惑な話だ」 「では、あの、彼女役をしてくれる相手は、その……まだ必要としていますか?」 「君が引き受けてくれるなら」  シェリアたちのことが頭に浮かぶ。  ビジネスパートナーとはいえ、王子の彼女がわたしだと知られたら、いじめがもっとひどくなるだろう。想像するだけでゾッとする。  けれどわたしの頭を占めているのは、ジュニーとトビン。  ポケットに手を入れ、折り畳んである画用紙に触れる。  妹と弟を守りたい。おいしいものをたくさん食べさせてやりたい。新しい服と靴を買ってあげたい。裁縫の好きなジュニーには、かわいい布と糸を。お絵描きの好きなトビンには、絵の具を買ってあげたい。二人の笑顔をたくさん見たい。  妹と弟を幸せにするためなら、つらい目にあっても平気。いじめられても耐えてみせる。    それでも、不安と緊張で声が震える。けれど勇気を奮い立たせ、王子をまっすぐに見つめた。 「恋人役のお仕事——わたしでよければお引き受けします。よろしくお願いします」 「そうか。それは助かる」  顔を上げると、王子の目元が和らいでいる。冷めた目じゃない。雪が溶け、その下に咲いていた花が姿をあらわしたような、温もりのある眼差し。  頬がカッと熱くなる。 「この際、清掃員の仕事を辞めたらいいよ。まかなえるぐらいの給料は出せるんだから」 「でも……」 「いつでも助けてあげられるわけじゃない。嫌な思いをしたくないだろう?」  王子にも、わたしがいじめられるんじゃないかという懸念があるらしい。  けれどわたしは、期間限定の恋人役という仕事のために、清掃員の仕事を辞めたくない。王子が卒業して本国に帰った後、また仕事を見つけることができるのか不安だ。  心配してくれる王子のために、明るく笑ってみせる。 「わたし、お掃除の仕事が好きなんです。綺麗になるのが嬉しいし、没頭していると時間も嫌なことも忘れて、心が無になるんです。面と向かって感謝されることはないけれど、生徒たちが快適に勉強できることに貢献していると思うんです。清掃員の仕事にやりがいを感じているので、続けたいんです」 「そうか。まぁ、君がそこまで言うのなら……」  わたしの反応が意外だったらしく、王子は眉根を寄せた。  納得していないような口ぶりなのに、それでもわたしの気持ちを尊重してくれたことが嬉しい。  三日後に王子の邸宅に行くことを約束して、別れの挨拶を述べた。  キャスターが付いている金属製のゴミ箱を運んでいると、王子の声が背後から聞こえた。 「いつも綺麗にしてくれて、ありがとう」 「え?」  振り向いたときには、すでに王子は歩き出していた。凛としている彼の背中に、感謝を届ける。 「ありがとうって言ってくれて、わたしのほうこそありがとうございます!!」  アルオニア王子は冷たい人のように見える。けれど、本当は違うのかもしれない。  清掃の仕事をしても、面と向かって感謝されることはない。そう言ったわたしのために、いたわりの言葉をくれた。
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