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二章 恋人役のお仕事
アルオニア王子の屋敷の使用人にとって、わたしの第一印象は最悪だろう。みすぼらしい身なりをした不審者だと思われているかもしれない。
なので手持ちの服の中で、一番上等のものを選んだ。といっても、シンプルな麻のワンピースなのだけれど。
髪をきっちりと結えて、乾燥している唇に保湿クリームを塗る。
「よし! これで大丈夫。今日は屋敷に入れてもらえるはず」
アルオニア王子を通して、今日屋敷に伺うことは使用人に伝わっているとは思う。それでも不安が募って、緊張してしまう。
屋敷に着くと、出迎えてくれた使用人が丁寧な応対をしてくれた。
「リルエ様、お待ちしておりました。お話は伺っております。執事のヴェサリスの部屋にご案内します」
「あ、はい。ありがとうございます……」
前回とはあまりにもかけ離れた対応に、拍子抜けする。おまけに様付けで呼ばれるなんて生まれて初めてのことなので、むず痒い。
ヴェサリス執事の部屋で、恋人役の契約書を渡されて説明を受ける。
「大切なことが二点あります。一点目は、仕事期間中も終了後も、一切口外しないこと。恋人役の仕事を依頼されたこともそうですし、アルオニア様のプライベートも第三者に話してはなりません」
「はい。分かりました」
「二点目は、お給料は前払いと致します。後から金銭の催促をなさらぬようお願いします」
「それはもちろん! 大丈夫です」
「期間としては、アルオニア様が大学を卒業するまでとなっています。承諾していただけるなら、サインをお願いします」
ヴェサリスから万年筆を渡される。
大国エルニシアの王子の恋人役なのだから、契約が複雑だったり、身内調査があったらどうしよう……と身構えていた。
けれど両親について何も聞かれず、契約内容もシンプルでホッとする。
不安に思うほど、責任の重い仕事ではないのかもしれない。親密な関係の女性がいるという匂わせ程度の役割であるなら、わたしにでも十分できそうだ。
そう考え、署名欄にサインをする。
ヴェサリスは契約書を確認すると、一つ大きく頷いた。
「これで契約は完了となります。では今から、アルオニア様の彼女となっていただきます。よろしくお願いします」
「い、いまからですか⁉︎」
驚きのあまり、声が裏返ってしまった。
ヴェサリスは、契約書に記してある雇用期間の部分を指さした。
「日付が今日からになっているでしょう?」
「そうですが、早速始まるとは思っていなくて……」
「不安ですか?」
素直に頷く。
「契約書には、彼女役としてするべき具体的な行動が書いていないのですが……何をしたらいいのでしょう?」
「気負う必要はありません。世間一般的な恋人のようなことでいいのです」
「それが問題でして……」
ヴェサリス執事は理知的な目をしているのだけれど、物腰が柔らかく、声に丸みがある。人見知りのわたしでも打ち解けられるぐらい、話しやすい雰囲気がある。
そのせいで、つい、正直に話してしまう。
「大変に恥ずかしいのですが、その……わたし、誰ともお付き合いをしたことがなくて……。世間一般的な恋人のすることと言われましても、まったくピンとこなくて……」
ヴェサリスは一瞬言葉に詰まらせたのち、拍子抜けしたように笑い出した。
「いや、笑って失礼。そっちの不安でしたか。わたくしはてっきり、アルオニア様を本気で好きになったらどうしようとか、そのような不安かと……」
「そんなだいそれたことありえません! 絶対にないですから! それに、これは仕事だって分かっています。ビジネスパートナーとしてのルールは守ります!」
「そうですか、それは頼もしい限りです」
ヴェサリスは「リルエさんの不安を解消するに相応しい使用人がいます」と、呼び鈴を鳴らした。
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