春の姫の文

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春の姫の文

 『お久しぶりです。お元気でしたでしょうか。今朝、ようやく東の国から都に戻ることができました。やはり京の景観は安心します。こちらではまだ冬の訪れを感じられないのですね。私が赴いた東国では既に雪が舞っておりました。光のように明るい白。とても美しく、貴女にお見せでできなかったことが残念です。これからまた、貴女のお側に居られることを嬉しく思います。 尊人』 ◆◆◆  少し角張った優しい文字。紙から漂ってくる懐かしい香の香り。 読み終えたばかりの文を胸に抱え、紗依子はクスッと小さく笑みを溢した。 「姫様? いかがなさいましたか?」 側に控えていた侍女の薫子がそれに気付き声をかける。紗依子は首を振った。 「いえ、何でもないわ」 幸せそうに目を細めて。文の終わりに記された「尊人」という文字にそっと指を触れさせる。 ずっと待ち続けていた人からの文。 普段色々な人から送られてくるそれとは違う、胸が温かくなるもの。 「……お帰りなさいませ」 格子が開け放たれ朝の光が射し込む部屋の中、紗依子の声が優しく空気を揺らした。 ◆◆◆  独自の文化が栄え賑わう平安の世。 藤原が強い勢力を誇る京の都では穏やかな日々が流れていた。 大きな戦乱もなく貴族同士の争いも落ち着いている今。 都には笑い声が絶えることなく溢れていた。新たに出来た文化を楽しみ歌を詠む。 庶民にもその温かい風は吹き、平和な時代と云われていた。 そんな世で、九条道経の娘・紗依子は九条家の一の宮として生を受けた。その容姿を一目見た者が「春の姫」と呼んだのが今では定着し広まっている。 藤原家の遠い分家である九条家もまた都に大きな屋敷を持ち、有力貴族として広く名が知られていた。 ◆◆◆  「姫様、本日もこちらを姫様にと」 同日。 日暮れ時になって薫子が持ってきたものは大量の文だった。 「もう?」 紗依子は僅かに目を見張ると手にしていた筆を置いた。 「この間来たばかりでしょう?」 同じように大量に届いていた文を開いたのはつい三日ほど前で、まだ記憶に新しい。 それなのにもうこんなにと紗依子は驚く。 「そうなのですが、時期も時期ですので……」 今は暦上では冬に当たる季節。春に向けて皆が筆をとる時期なのだと薫子は言う。 知識として知っていたものの、紗依子は自分宛に届くそれの多さに戸惑うばかりだった。 年頃の貴族の娘に送られてくる、香の炊かれた文。 内容なんて見なくともわかる。それらはいわゆる恋文と呼ばれるもの、つまり求婚の歌が入っているのだ。 薫子に促され紗依子は文を手に取った。 季節と上手く掛け合わせた歌から巧みな技で詠まれた歌まで、色々な歌がある。中には紗依子を賞賛する歌も混ざっていて、何だか恥ずかしくなり紗依子は薫子へと文を手渡した。 「お返事はいかがされますか?」 「いえ……このままいつものように、お父様の方へお届けして」 「良いのですか?」 薫子の問いかけにこくりと頷く。 折角貰ったものだけれど、文を返そうと思ったことは今まで一度もなかった。 『貴女はどなたかに文を送られないのですか?』 以前そう聞かれたのを思い出す。あの時紗依子は、結婚のことを上手く考えられないのだと返した。 文を送ってくるのは皆、顔も知らない人なのだ。表に出て仕事をしている道経とは違って紗依子が外に出ることはない。家の者以外の人と関わる機会なんてあるはずもないのだから。見ず知らずの人との結婚を想像することなんてできない。 他の方々はどうしているのだろうと紗依子は毎度思う。 政略結婚の多い藤原家。 分家とはいえ九条家も藤原の一族の一つだ。 十六の今まで相手を決められることなく、紗依子自身が誰かを選ぶのを待ってくれているというのは珍しい。道経が紗依子のことをよく想ってくれているからこそできること。 それでも紗依子は選ぶことができなかった。名の知れた家なだけあって文は届くけれど、全て道経に渡している。 想像することができない結婚なのだ。 どうせなら家の役に立ちたい、お父様が気に入った方を選ぶ、と。そう伝えてから数年。 「本当にご自身でお決めにならなくて良いのですか?」 遠慮がちに尋ねてくる薫子に、ええと紗依子は答えた。 「私には想う相手なんて作れないもの」 文を開くために置いていた筆を再度手に取り、紗依子はするすると慣れた手付きで文字を綴る。 「姫様、そちらは?」 「今朝届いた文をくださった方へ渡すものよ」 ふふ、と紗依子は微笑んだ。自然と声が弾む。 「久しぶりだから書くことが多くて大変なの」 「姫様……」 楽しげに文へ向かうその瞳に浮かぶ、紗依子自身も知らない想い。その正体に気が付いているのは薫子だけだった。 ◆◆◆  『お久しぶりです。長旅ご苦労様でした。ご無事でなによりです。私はありがたいことに風邪一つ引かずに過ごすことができました。もう雪が舞っていたのですか。東国は自然で溢れているとよく聞きます。都ではなく自然の中で雪を見られたのなら、いっそう美しいのでしょうね。私もぜひ一度見てみたいものです。京ではまた新しい歌が、貴族だけでなく庶民にまで広まるようになってきたようです。この先が楽しみだとお父様が話されていました。貴方が離れている間はとても長く感じました。またこうして文を交わせることが嬉しいです。 紗依子』 ◆◆◆  「尊人はいるか?」 尊人は、自分を呼ぶ声に慌てて届いた文を折り畳みしまった。 「はい、ここに!」 返事をするのと同時に立ち上がり駆け寄った先には、尊人と同じく舎人の先輩である直也の姿がある。 「次の仕事を……ってなんだその緩みきった顔は」 直也に指摘され尊人は意味がわからず自分の頬に触れた。確かにいつの間にか緩んでいる。ああと尊人は頷いた。 「すみません。文を読んでいたもので」 「文? ああ、お前がいつも楽しそうに書いているものか」 楽しそうに、という言葉に尊人は曖昧に笑みを返した。 顔に出てしまっていたとは。仕事上感情を表に出すことは好ましくないのだが。自分では気を付けているつもりでもまだまだできていないらしい。 「まあいい、ほどほどにな」 「はい。すみません」 話は仕事へと移る。 直也は尊人に一通の文を手渡した。 「これを小野家に届けてくれ」 「小野家、ですか?」 尊人はここに仕える際に覚えた貴族たちを思い出す。小野家。確か九条家よりも僅かに位が高い家だったはずだ。 「これは正式なものだから家の者に渡すだけでいいそうだ」 「ただ文を届けるというのは珍しいですね」 「……仕事内容は詮索しない決まりだろう」 わかっています、と尊人は神妙な顔付きで頷いた。 尊人の仕事は少し特殊だった。 平民の出の尊人は表向きただの舎人として雇われ屋敷の雑用をこなす一方で、こういった風に九条家の使者として動いている。貴族よりも平民の方が情報漏洩の心配もなく都合がいいからだ。 内容は様々。普通なら関わることのできないこの家の一の宮である紗依子との出会いも、任された仕事を遂行している最中だった。その後から今まで密かに文を交わしていることは絶対に言えないが。 尊人が渡されたばかりの文をしまっていると、直也が辺りを見回してからこそっと顔を寄せた。 「まあでも、ちょっとした噂があるんだよ」 「噂?」 「ああ、といっても事実なんだそうだが……」 職に忠実な直也がそんなことを口にするなんて珍しい。何を言われるのだろうかと尊人は身構える。 「春の姫がついにご結婚されるらしい」 尊人は動けなかった。 春の姫。結婚。 繋がらない言葉ばかりが頭を回って。 次に脳裏に浮かんだのは、紗依子の顔だった。 「さ……春の姫が、結婚……?」 「らしいぞ、何てったってあの一の宮様だからな。九条様が大切にされているとはいえ、いつそんな話が出てももうおかしくないとは思っていたけど。ついにってことだな」 尊人は次の仕事だと渡された文を思い出す。 小野家宛の文。確か小野家には二十ほどの年の、未だ独身の跡継ぎがいらっしゃったはず。 「いやあ、めでたいな!」 「……」 尊人は今度は別の文を思い浮かべた。 今朝、紗依子に貰ったばかりの文。 この日々が壊れてしまうのだと、嫌でもわかってしまった。 ◆◆◆  『貴女は夢というものをお持ちですか?』 『夢……ですか。そうですね。考えたことはありませんでした。私は外の世界をこの目で直接見てみたいです。貴方はお持ちなのですか?』 『はい。今までは無かったのですが、最近見つけまして。難しいとは思いますが頑張ってみようかと』 『そうなのですね。応援しています』 ◆◆◆  「紗依子」 辺りに響く道経の声。 「お前の結婚を進めようと思う」 そう告げられた時、紗依子は安堵した。 ようやく。 ようやくお父様の、九条家のお役に立てる。 けれど同時に、何故か胸が痛んだ。 「良いか?」 「はい」 道経の問いかけに間髪を入れずに答える。 隅に控える薫子の表情が僅かに強張ったように見えた。 「そうか」 道経はゆっくりと頷いた。 「相手は小野家だ。目立った噂もなく評判もいい。相手として相応しいと思う」 お父様がそこまで言うのなら良い人なのだろう、と紗依子は思った。改めて自分は恵まれているのだと実感する。 「ありがとうございます」 心からの言葉だった。 「紗依子」 部屋を辞そうとした時。耳に届いた声。 「……これは紗依子の人生だ。本当に良いのか?」 確認と言った方が相応しいような。そんな道経の言葉に。 はい、と。紗依子は答えた。 「よろしいのですか?」 部屋へと戻る途中。 道経の手前、ずっと黙っていた薫子が口を開いた。 「ご結婚のこと。このまま小野様と進められてよろしいのですか?」 紗依子は質問の意味がわからず首をかしげた。 「どういうこと?」 「姫様には……」 薫子はしばらく言おうかどうか躊躇った後。 「姫様には、想っている御方がいらっしゃいますでしょう」 そう口にした。 「え……」 想っている? と紗依子は目を丸くした。 「私にはそんな方なんて……」 「いいえ、いらっしゃいます」 断言する薫子に紗依子は驚いたままだ。 幼い頃から側に仕えてくれていた薫子。紗依子の言葉を遮ってまで何かを言うことなんて今までなかったというのに。こんな姿は初めて見た。 「姫様はお気付きでないのかもしれません。ですが、このままご結婚を進められては……」 薫子の言葉が途切れる。それでもなお、続けようと薫子は必死に声を振り絞っていた。 「進められては、姫様がお辛くなってしまいます……!」 「……薫子……」 「ですからどうかっ、どうか……」 もう一度、お考え直しください。 その言葉は重く響き、紗依子の心の奥を揺らした。 部屋に着き薫子が辞した後も紗依子は一人考え続けた。 結婚を進めれば辛くなる。そんなことはないと思う。薫子があんなにも必死になっていた理由がわからなかった。 この結婚で辛くなるわけがない。だって。 「お父様が選んでくださった方と結婚する。これほど幸せなことはないもの」 ああ、でも。 「……文は書けなくなってしまうのね……」 また、胸がひどく痛んだ。 原因のわからないそれを誤魔化すように紗依子は起き上がり筆を手に取った。尊人に、もう文を書くことができないと伝えなければいけない。 『尊人様。私、結婚をすることになりました』 書き出しはそんな言葉にした。 『突然で申し訳ありません。けれどもう貴方と文を交わすことは難しくなってしまうでしょう。ですから、これまでのお礼を言わせてください』 慎重に。いつもより丁寧に字を綴っていく。 この文が最後になってしまうだろうから。 これまでで一番の文にしたいと。綺麗な形で尊人の記憶に残ってほしいと。 その一心で紗依子は筆を動かした。 『私は、貴方の話す外の世界が好きでした』 ぽたり、と。文字が滲んだ。 『貴方から届く文が、いつも楽しみでした』 ぽたり。ぽたり。字が形を崩していく。 『貴方の文を待つ時間は落ち着かず、長く感じていました。もうこうして交わすことはできないのだと考えるととても悲しいです』 どうして。 『尊人様はこの前の文で夢を見つけたと仰っていましたね。その夢が叶うこと、尊人様の幸せを私は願っております』 どうして、こんなにも。 『私も、次の家で幸せに、』 こんなにも。涙が零れてくるのでしょうか。 「っ……」 頬を伝うものをそっと拭う。けれど止まってはくれなくて。どうすればいいのかわからなかった。 想っている御方がいらっしゃいますでしょう、と薫子の言葉が甦る。 「私は……」 そんな相手はいないと思っていた。 育ててくれた道経に、九条家に。恩を返せるような結婚をすることが自分にとっても一番だと紗依子は思っていた。それなのに。 「っ、私は」 今。この胸を満たす想いは。 「……尊人様っ……」 会いたい。 堪らなく、会いたい。その声を聞きたい。字ではなく声を。あの方の声を。 「……お会い、したいっ、ですっ……」 直接会ったのは果たしていつが最後だろう。 身分の差もあり表立って会うことはできなかった。だから文を交わすことにした。 会うことはできない。それでも今は。 「尊人様っ……」 紗依子は震える手を抱き締めるように体を丸めた。 こんな想いが自分の中にあるなんて知らなくて。苦しい。涙が止まらない。 ああ、あの時なぜはいと答えてしまったのだろうと。紗依子は後悔した。あんなにも道経は確認してくれたというのに、後から自分の想いに気が付いて。もう全て手遅れで。 今さら、結婚したくないなんて。 そんな勝手許されない。 紗依子はぎゅっとキツく瞳を閉じた。涙を止めないといけない。そして涙と共に、早くこの想いも消してしまわなくてはいけない。早く。早く消してしまわないと。 でも……無理だった。 一度知ってしまったものは簡単に消えてはくれない。 私は、と紗依子は呟く。 「尊人様のことが……」 好きです。 言葉にならないそれを胸の内で溢した時。 一筋の涙が紗依子の頬を伝って。 黒い影と大きな衣に、そっと受け止められた。 「紗依子」 耳に届いた懐かしい声。 同時に、温かな温もりと愛しい香りに包まれて。 「迎えに、参りました」 ゆっくりと顔を上げた紗依子の瞳に映ったのは…… 「っ、たけ……と……さま……っ」 紗依子の唇が震え、一つの名前を形にした。その瞬間。 二人の手が重なった。 ◆◆◆  九条家の春の姫が消えた。 そんな噂は瞬く間に京中に広まっていき、世を騒がせた。 姫に文を送っていた者たちが九条家の当主である道経のもとへこぞって会いに行ったと云うが、何の情報も手に入らなかったそうだ。 道経はこう言っていたという。幸せの形は本人が決めるものであり、世が決めるものではないと。その言葉に心打たれた者は多かった。 消えた姫と一人の舎人。 文が繋いだこの二人の結末を知る者は……
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