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今日は予定が早く済んだので、日が落ち始める前に帰路につけた。
暑くもなく寒くもなく、徒歩の私にとってはとても優しい気候で、それだけでなんだか気分が良い。
家まで何事もなく帰れると思っていた。しかし、普通に歩いているだけの私の真横を何物かが通り過ぎる。
ちゃんと進行方向である前を向いていた私の視界に入ってきたのは、すばやく動いた黒い影。
突然の勢いに何事かと思ったが、目の前には走る男。
どうやら私を抜いたあたりから走り出したらしい。足音もなければ気配も特別感じなかったので、私の後ろにいるときは普通に歩いていたと思われる。それが突然、まるで私が何かのスタートラインかのごとく、走り出したのだ。
颯爽と目の前に現れた男は上着もズボンもまっ黒の男だった。そりゃいきなり真横を走り抜けてきたら、黒い影にも見える。
走り出すタイミングといい、格好といい、なんとも言えないレベルの変な人だった。けれどまあ、そんな人もいるか、と思った矢先――
ぶんっと音がなるかのような勢いでいきなりこちらを振り向いた。
思わず私はぎょっとする。目を見てはいけない気がして、慌てて視線を逸らす。
男は何事もなかったようにまたすぐ前に顔を戻す。
その間、わずか2秒。男の足は止まっていない。走り続けているのだ。
私は、ふう、と一息ついて落ち着きを取り戻そうと思ったその時、
ぶんっとまた、どこからか効果音が聞こえてくる。
振り向かれた。と、思ったらまたすぐに前を向く。もちろん足は止まっていない。
走りながらちらりちらりとこちらの様子をうかがっているその姿は、まるで男には私が巨大なバケモノか何かに見えていて、それから逃げている人のようである。男の走り方からにじみ出る必死さが、私のことを恐怖の存在として認識しているそれなのだ。
そんなはずはない。私はどちらかと言えば、人から道を尋ねられるようなか弱い人間であり、人に怖がられる形相ではなかったはずだ。
だけど、そんなことを考えている間も、私の方をぶんっと振り向いて見ては前を向く、を繰り返しながら走り続けている。
なんだ。なんなんだ。
バケモノはあまりにも非現実的すぎたので、もう一度冷静に考えよう。
もしや、私のことを知っている人とか。いや、少なくとも私は見覚えがない。では知っている人に私がそっくりで、声をかけるか迷っているとか。
でも、だとしたら走っている説明がつかないではないか。
バケモノに見えていないとすれば、私が知り合いかどうか考えあぐねているように見えなくもないけれど、何も不安定な走りの最中に考えることではない気がする。そんなに私のことが気になるなら歩けば良い。ちらり、と見ることに気まずさを覚えているとしても、歩いた方が良いに決まっている。
もともと急いでいる、という説はどうか。
ジャージでもない人が走っている大概の理由は、そもそも急いでいるのだ。でも急いでいる状況で、わざわざ私みたいな個性もろくにない人間に対して「あれ?知り合いかも?」と気になったりするだろうか。よっぽど普段から思い人を探しているでもない限り、今はそれどころではない、と先を急ぐはずである。
もしやもしや、生き別れた妹にそっくりだとか、死んだ恋人に似ているだとか、そういう映画のような展開でも待ち構えている人なのだろうか。
先を急ぐ気持ちと、私のことを確認したい気持ちが、男の中で相当せめぎあっているのかもしれない。
ぐるぐると思考を巡らせている間も、定期的にぶんっとこちらを振り向いてくる。
向こうは走りをやめないわけで、逆に私は走ることはしていないわけで、それはつまり、私と男との距離はだんだんと開いていっているということになる。多分だけれど、走るスピードはあまり速い方ではない。とはいえ、私の真横を皮切りに走り出した男の姿はすでにだいぶ小さくなっている。
思い当たる人がもしかしたらいるかもしれない、と遠い親戚やら学校の他クラスやらの男を思い浮べてみる。交流範囲が少ないので、思い出そうとしてもなかなかぼんやりしているのだけれど、男と特徴が一致する人物がいるかもしれない。
すると、突然――。
男は足を止めた。
あれほど急いでいたのに、突然。
私という恐ろしい存在から逃げているのではないか、というほど必死で走っていたのに。
――なぜ。
ついに私のことが誰だかピンと来た、とか、急ぐ理由がなくなったとか、だろうか。
だけれど、男は急いでいるわりには時計を見るそぶりを一度も見せなかったし、電話をとった様子もない。急ぐ理由が突如消えたとは思えなかった。
やっぱり、私に何か――。
そう思った時、
ごわんごわんごわんごわん、というエンジン音がだんだん大きく聞こえてくる。
普通の車とは少し違う、より機械的で独特な音。
確認しようと横を見るまでもなく、私の真横をあっという間に通り過ぎ、それは男の目の前に止まった。
ぷしゅううううと炭酸が抜けたような、拍子抜けする音が聞こえる。
それは、バスだった。
男は何事もなかったようにそのバスに乗り込むと、あっという間に私の目の前から消えていった。
――なるほど。
私も似たような経験があるので、すぐにピンと来た。
今までの推測があまりにも的外れで、勝手に恥ずかしくなる。きっと今の私は耳まで真っ赤になっているに違いない。
男に迫っていたのは、バケモノに見える私でも、知り合いかもしれない私でもない。バスだった。
バスの姿を自分の目でとらえれば、そりゃ焦る。時計を見るまでもない。後ろを振り向けば、自分が乗る予定のバスが迫ってきている。
単純明快。男はバスに抜かれる前に、バス停につかなくてはならなかったのだ。そりゃ必死にもなる。
ふう。ずいぶんと無駄な気苦労をした。自意識過剰なところがあるというのは、まあ、自覚している。こういうことも、ある。
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