短編「走る桜」

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
記録によれば、動く桜の姿が初めて確認されたのは1996年の4月である。代々木公園で満開の花を咲かせていた桜の木のうち、その数本が風もないのに枝をゆらゆらと揺らし始め、次に地中深くに張られていた根が地上に姿を見せると、無数の根っこをまるでタコが移動するかのように器用に使い、桜たちはゆっくりと移動を始めたそうだ。桜はわずか数メートルほどの移動を済ませると、文字通りそこに根を下ろした。 4日後、再び桜たちは移動を始めたと言われている。初日と同じようにほんの数メートル分だけ場所を移し、そこでまた根を下ろす。そんなことを1996年の4月の間に何度か繰り返したらしい。桜の移動する速度は非常に緩慢であり(足腰の弱い老人が歩く程度のスピードを想像してもらえたら良いだろう)、その頃はまだ「走る桜」とは呼ばれていなかったそうだ。 桜が本格的に走り出したのは翌年1997年とされている。季節は同じく4月。1年前に移動していた桜の木に加え、確認されている限りでは新たに5本の桜の木が移動を始めた。昨年よりもその行動範囲は広く、移動速度は早くなっていた。1998年、1999年、2000年、2001年。春が来るたびに動き出す桜は数本ずつ増え、彼らはより長い距離を、より早い速度で移動するようになっていった。 そして2002年。走る桜は「害樹」に指定される。車道に飛び出した桜が自動車事故を引き起こしたり、住居の侵入口を塞いだり、畑に入って農作物を荒らしたりするようになったためである。それから2022年4月までの約20年間、つまり桃井桜子が例の事件を起こすまで、走る桜は駆除の対象となっていた。 ※ いつも応援いただいている皆さんへ。 突然ですが、私、桃井桜子は2021年のバレンタインデーライブを持ってアイドルを卒業します。 急なご報告となってしまってごめんなさい。アイドルグループ『colorfu-l』として活動をしてきた私ですが、25歳の誕生日を迎えたのをきっかけに、自分の人生について真剣に向き合う機会が多くなりました。このままアイドルを続けていて良いのだろうか、応援してくれる方々はいるけど、私が本当にやりたいことってなんだろう。そんなことを考えるようになったんです。 泣いても笑っても人生は一瞬。私の名前にある桜のように思いっきり咲いて、そして散りたい。だから私は、ずっと興味のあったライター業に挑戦してみることにしました。 大好きなファンの皆さん。こんな私ですが、もしよかったら引き続き応援してくれると嬉しいです。 2021年3月 『colorfu-l』桃井桜子 ※ 「あ、もしもし、母さん?そう、これでアイドルは引退。これからはライター桃井桜子として活動していくことになるから。 引退表明?あー、アレでしょ。違う違う。私じゃなくて全部マネージャーが書いたの。『桜のように思いっきり咲いて、そして散りたい』とか言うわけないじゃん。てか今思ったけど、散ったらダメじゃない? …言ったよぉ。アイドルを辞める本当の理由を書きたいって。でもグループのイメージもあるからって向こうも譲らなくてさ。まぁ最後の最後だし、私も妥協してやったわけ。ここまで有名にしてもらった恩もあるしね。桃井桜子としての最後の妥協ってやつ。 いや、これからは絶対にこういうことはしないよ。だって私はライターなんだから。自分が書く文章にはちゃんと責任もたないと。 …本当の理由?あれ、言ってなかったっけ?えっと、ほら私、もともと文章書くのとかけっこう好きだったじゃん。そうそう。SNSでも毎日20投稿くらい平気でしてたし。だから、いつかそういう仕事をしたいなとか思ってて。そしたらさ、たまたま知り合ったウェブメディアの社長さんがいたんだけど、私が投稿した文章見て「キミには文才がある」って言ってくれたの! …ね?こんなチャンス滅多にないでしょ?だからその人の会社でライターとして雇ってもらうことにしたってわけ。 未練?ないない、全然ないよー。そうだ母さん、ソメイヨシノって知っている?あ、その社長さんが話してくれた話なんだけどね。実は日本で咲いている桜ってほとんどがそのソメイヨシノっていう種類らしいのよ。しかも、ソメイヨシノのオリジナルはたった一本しかないらしいの。だから、オリジナルのソメイヨシノを接ぎ木っていう方法でクローンみたいにどんどん複製して、今の数にまで増やしていったんだって。…そう!私たちがお花見で見ている桜のほとんどはクローンのソメイヨシノってわけ。クローンってことは同じ遺伝子を持っているってことじゃん?だから桜は同じようなタイミングで満開になるし、同じような色の花を咲かせると。 でもさ。これってなんかアイドルみたいじゃない?ほら。私のグループって全員で30人くらいいたでしょ?同じような衣装を着て、同じような振り付けのダンスを踊って、同じように誰もが綺麗で可愛い。 そりゃお客さんからしたら見応えあると思うよ?桜も同じでさ、同じような綺麗な色の花がたくさん揃ってたら「わーすごい」ってなると思う。でも、こっちからしたらちょっと複雑っていうか「私がいる意味ある?」って感じで。 だからね、社長さんからソメイヨシノの話を聞いた時、ずっと胸の中にあったモヤモヤの正体がわかった気がしたっていうか、私だけにしかできないことをやってみたいって思ったの。 …うん。頑張ってみる。社長さんがね、最初は私が今、興味のあることを記事にしてみたらって言ってくれてるの。せっかく桜がきっかけでこの道に進むことにしたんだし、ちょっと桜について調べてみようかなって。そうそう、もうちょっとしたらお花見の季節だしね」 ※ 武井社長 お世話になっております、桃井です。改めて武井社長にお礼を申し上げたくご連絡いたしました。 今回、書かせていただいた連載「走る桜はなぜ走るのをやめたのか」は私にとってなにものにも変え難い体験でした。まだ第1回の記事が公開されただけですが、大手のニュースサイトに私の記事が取り上げられ、フォロワーも一気に1000人近く増え、自分の周りの世界が大きく変わったことを実感しています。 誰かに用意された価値観ではなく、自分の内から湧き出た意見が世間に認められた。そのことが私はたまらなく嬉しいのです。 もちろんポジティブな意見ばかりではありません。中には酷いコメントもありました。元アイドルだから注目されているだけとか、社長は私のライターの腕を買ったのではなく、単なる客寄せパンダとして採用したに違いないとか。 正直、腹が立っています。私のことを言われる分には構いません。でも、私のせいで恩人である社長まで悪く言われるのが許せないのです。もちろん、この人たち一人一人の住所突き止めて復讐してやろうだなんて思っていません。私にできる唯一の反撃は良い記事を書くこと、そう信じています。 だからこそ、社長に一つ、ご相談があります。現在「走る桜はなぜ走るのをやめたのか」の第3回の原稿を書いているのですが、以前、話題に上がった『走る桜を守る会』の取材をしたいんです。 危険な団体であることは分かっています。人類を桜の肥料にしてしまう計画を練っているとか、「走る桜」の伐採を過激な方法で妨害しているとか、そういう噂があることも知っています。ですが、走る桜について取り上げるのなら避けて通れないと思うんです。どうか許可をいただけませんか。 桃井桜子 ※ 第3回「走る桜はなぜ走るのをやめたのか」 ライターの桃井桜子です。第3回となる今回は、走る桜がなぜ「害樹」に指定されたのかについてお話しします。 1997年から移動距離を伸ばすようになった走る桜たちは、あちこちで交通事故を引き起こし、建物の出入り口をふさいでしまうことがあったと言われています。そのため、世界で初の「害樹」に指定され、今では走る桜が人々に害を及ぼす前に自治体の手によって伐採されることになっている。これは多くの方が知っていることでしょう。 しかし、実際に走る桜がどのように伐採されているかご存知の方は中々いないのではないでしょうか。今回はある桜の伐採の一例をお伝えします。 まず移動の報告がされていた桜を見つけると、自治体の人間が走る桜の体に太い縄を何重にも巻き、その縄を近くの建物や遊具に結びつけます。桜が移動を始めるのは朝8時ごろからなので、その前に縛っておけば簡単に動きを封じられるのです。次に、彼らはチェンソーを起動させます。ウィンウィンウィンと悪魔のような音が鳴り響き、その音で大抵の桜は目を覚まします。 あまり知られていないことですが、桜たち確かな知性があります。そのため、自分が縛られているということ、そして自分の身に起きるであろうことをすぐに理解します。なんとか逃げ出そうと幹をうねらせ、枝をばたつかせます。しかし縄は外れません。その間にもチェンソーの音が徐々に近づいてきます。桜は必死になって暴れます。ですが縄はびくともしない。やがてチェンソーの刃が桜の幹に当てられて…。 覚悟のある方は「走る桜 伐採」で検索してみてください。私はこの映像を見たあと、しばらく食事が喉を通りませんでした。これはれっきとした拷問です。知性のある生き物を縛りつけにして殺してしまう。非人道的な虐殺です。こんな残酷なことが身近で起きていたのに、全く気づかなかった自分が恥ずかしい。 しかしある意味でそれは仕方のないことだとも言えます。政府はこれらのことを意図的に隠しているのです。例えば、テレビで伐採のニュースが取り上げられる時、決して伐採の瞬間の映像を見せません。画像が使用される時も、普通の木と同じように伐採された後のものばかりです。そもそも害樹という呼び方がひどい。走る桜には知性がある。保護する対象なのです。 ですが、今からでも私たちにできることはあります。『走る桜を守る会』をはじめとする、桜を保護する団体の活動に参加するのです。彼らの活動について悪評が飛び交っていますが信じてはいけません。彼らの行動こそ正義なのです。 ライター 桃井桜子 ※ 武井社長 お疲れ様です。 先ほど担当の方から、私がお送りした「走る桜はなぜ走るのをやめたのか」の第3回の記事が世の中に出すものとしてふさわしくないと連絡がありました。 走る桜の保護に賛同するような内容が問題だとのことだったのですが、なぜ賛同してはいけないのですかと尋ねても具体的なお返事がいただけず、こうして社長にご連絡した次第です。 私の記事の文章を添付いたしますので、お手数ですがどのような点が問題であるのか、そしてなぜそれが問題であるのかをお聞きしたいです。よろしくお願いいたします。 桃井桜子 ※ 母さんへ 突然のお手紙ごめんなさい。ちょっと自分の周りでいろいろなことが重なってしまい、自分の考えを整理することも兼ねて、電話でもメールでもなく手紙を書くことにしました。 ライターを辞めました。前に母さんに電話をしたのはちょうど桜の蕾がつき始めていた頃だから大体1ヶ月前ですね。1ヶ月。私の人生の中で本当にいろいろなことがあった1ヶ月でした。 今、家の近くの公園からこの手紙を書いています。土曜日だからでしょうか。私の周りには大勢の花見客がいます。お花見って不思議ですよね。桜を見ようと思って集まっているのに、綺麗だとか素敵だとか言っもてはやすのは最初だけ。いざお花見が始まったら誰も桜なんて見やしません。 結局、桜というのは口実なんでしょう。人が集まるための口実、人を集めるために口実。他の桜と同じように黙って咲いている桜が都合よくて、勝手に走り出されたら困るんです。 私はつくづく桜でした。クローンのように代替可能な桜であり、客寄せパンダとしか見られていない桜でした。 走りだした桜たちの気持ちが今の私にはわかります。自分がここにいる意味を、自分の存在意義を、彼らは主張したかったのです。同時に、まだ走り出していない桜の気持ちもわかります。彼らはきっと走り出したいと思っているんです。ただ、その一歩を踏み出すことができずにいるだけ。私にとっての武井社長(彼は今、桜の木の下で眠っています)の言葉がそうだったように、誰かが背中を押してやれば、彼らも走り出すはずです。 私は桜たちのために生きていこうと思っています。まだ動けずにいる桜たちの背中を押し、伐採されてしまう桜を守り、彼らの権利を主張しようと思っています。今年はもう間に合わないですが、多分、2022年の4月にはとっても素敵なことが起きるはず。 それではお元気で。 「走る桜を守る会」幹部 桃井桜子
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!