式神兆呂斎

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式神兆呂斎

 上人は平素より地上近く見える赤みがかった月を眺めた。 「政敵を表舞台から尽く葬り去られたあのお方でも,保輔さまに対するお仕打ちには生涯胸を痛められたようで……五男というお生まれのせいで,兄上方が御健在のうちは日の目を見られぬ折も重なり,お若い時分は兎角お荒ぶれになることも。頼親や為頼などいう不逞の輩を連れられて非道な嗜虐にも耽られたのです。その度ごとにお側にお控えになる保輔さまが,主君に追捕の及ばぬよう綿密に御処理なさいました。謂わば保昌さまが表の家司なら保輔さまは裏の家司であったと申せましょう。裏家司は主君の命ずるままに軍資金集めのための強盗や政敵を陥れるための工作に従事しました。裏家司の働きにより,主君は政権の地盤がためを着実に進めたのです」 「実際に見てきたごとく申すではないか」 「実際に見て参りました」 「……そちは保昌殿に返報を請うたとかいう興福寺の僧兵か」そう問うたものの,歴然たる疑念が脳内をよぎった。  保輔の切腹した永延2年から50年近くもの歳月が過ぎる。当時,童であったにせよ,それ相応の年齢に達しているはずである。しかし眼前の上人は眉間や目もとの皺を除けば,頰など桃色に輝かせ,実に若やいでいる……  従三位参議は手にした扇をはたと落とした。 「あないみじ。どうぞ,宗さま……」這い蹲うように扇を拾い,恭しく差し出しながら相好を崩す。その顔面は艶々と滑らかな水気を含んだ肌におおわれているではないか。眉間や目もとにあるはずの皺は跡形もなく消え,上人のありさまは出家したばかりの御曹司さながらに見えるのであった……  従三位参議は膝の震えを覚えながら立ちあがった。「我が幼名 宗国(むねくに)を呼ぶそちは,何者ぞ……」 「お屋敷の木立でお遊びいただいたではございませぬか。ほに,先程私めをお見つけになったあの場所で――」  のびあがるように前のめりになるなり体を核とする爆裂が生じ緋の微粒子が飛び散った。轟と風が巻き起こり微粒子が押し寄せる。たまらず両眼を閉じれば,足場が空となり,宙に浮く体感があった。  目をひらく。そこは上人と出会った,夜より濃い影を落とす樹林のなかである。  咄嗟に袂で顔を隠し,後退る――   六つの鉤爪と蹴爪を地に食いこませる足は密に棘を帯びながら,樹林のあらゆる大木をも凌駕して数十尺に達するほどである。いかなる刀剣をも弾き返してしまいそうな筋骨隆々たる胴の上には,岩山でも想わせるごつごつとした顔面があり,その中央に一つ目が妖しく底光りしている。赤銅色の長髪の靡く頭頂部には鋭い角が突きあがり,皓々たる月光の空へと延々と果てしなくのびていた。 「さようにお嫌いめされるな。お子のころは御寵愛賜りましたのに……」  袂より覗き見れば,一つ目から赤い涙が垂流する。 「鬼か,物の怪の,取り憑かんとするものか」 「式の神でございます」  一つ目を伏して会釈する兆呂斎(ちょうろさい)の表情は面映ゆげでもあり,晴れやかでもあった。  従三位参議は幼いころ父 俊賢(としかた)をはじめとする家中の者が慌てふためき,自分を三月(みつき)も潔斎させたことを思い出した。その間,昼夜を問わず,高僧に加持祈祷をさせたり,陰陽師に結界をはらせたりした。そして父は樹林への立ち入りをかたく禁じたのである。 「宗さまは,お父上とのお約束をお守りになり,長らく木立にお入りになることはございませんでした……いかにも今宵までは」そう呟き,恐るおそるその場に端座する。  心配りはしたつもりらしいが,旋風が密生する木々を撓らせ,枝葉を飛ばしながら,従三位参議を遠方へと吹きあげた。落下する衝撃に身構えたが,想定外のやわらかな感触につつまれる。集積する桔梗の花々の上に舞い降りたのである。兆呂斎が瞬時に搔き集めた,桔梗のむしろの敷かれた,巨大な両掌のなかに座っている。  見あげれば,丸い一つ目が楕円に形状を崩した。従三位参議も微笑むと,顔面を近づけ赤髭に紛れた分厚い唇をさき,真紅の牙を剝き出しに笑った。  不思議と恐ろしさを微塵も感じないのである。そればかりか懐かしさとともに鮮明な記憶が従三位参議のなかに蘇った。  生温かい牙に手をかけ,濡れた唇へよじ登ってから,そよそよ戦ぐ髭を胴に巻きつけ,弾みをつけて鉤鼻の先端部へ飛びあがる。その地点でしばし辺りの眺望を楽しみ,飽きれば顔面の激しい凹凸を頼りに,更なる高みへ登りつめていく。頭頂部から生える角の根もとに達すれば,童の身を案じ青くなる友の制止を振り捨て,高揚に駆り立てられ,闇を突きあげる角の際限を目指すのである。しかし目指すところに到達の叶うことはなく,必至滑落し,友の両手に受けとめられている。不甲斐なさから声の限りに泣き喚く童に,友は古今東西の物語を夜通し話して聞かせたものであった……  記憶の一切を取り戻した従三位参議は,懐旧の情に浸るとともに,慙愧にも近い念を抱き,かつ複雑な思いに捉われた――申し訳のない仕打ちをした。しかし友は式神でもある。陰陽師でもない我にとって大人たちの処置したように関係を断つのが賢明である。 「いかにも生来獰猛な式神ですゆえ……」兆呂斎は目色を曇らせながら従三位参議を地上におろした。「伊尹(これただ)卿や兼通(かねみち)卿を病死させ,() (ざん)の帝を退位に追いこんだ式神ですゆえ――」 「不埒極まる言葉の数々――慎まぬか!」  兆呂斎は眼球を回転させた。「道長の息の根もとめるはずでございましたよ!」  もはや従三位参議は絶句するばかりである。 「しかるに保輔さまが自らの死をも顧みず,呪詛のかかる書簡を丸のみされたのです。かくして道長暗殺は阻まれてしまいました。暗殺を企てたのは――」にっと笑みを浮かべ,小首を傾げる。「それは――それは申さぬほうが宜しいかと。ただ高貴な女人が謀ったものとだけお伝えしておきましょう。さる女人が陰陽師に命じ,私を道長宛ての書簡に忍ばせたのです」 「女人の命じた陰陽師とは道摩(どうま)法師であろう。保輔殿は捕縛される前に,当時中納言であった顕光(あきみつ)さまのお屋敷に籠居したと聞く。顕光さまは道摩法師と懇意であった。蓋し保輔殿は道摩法師と会うためにかの屋敷へ行ったのではないか」 「仰せのとおりで。保輔さまは道摩法師に白状させて呪詛を解く方法を聞き出したのです――式神を自らの体内に封じこめ命を以て調伏するという方法を。しかしながら調伏を欲する者の精神が脆弱ならば,呪詛した側も死ぬという危険な賭けでございました。調伏失敗において保輔さまの最も御懸念になったのは,呪詛した女人に災いの及ぶことでありましょう」 「……保輔殿はその女人を想うておったのか」 「女人も保輔さまを想うておられました。二人は相思の仲でした。それが道長の保輔さまを追いつめた最大の理由でございます。女人を愛する道長は悋気に狂い,保輔さまを本朝一の悪党へと仕立てあげたのです。しかるに,保輔さまは女人だけでなく,自らを陥れた主君をもお救いになったのです。書簡の収まる臓物が射られたり斬られたりしますならば損傷部より式神が逃亡してしまいましょう。さような恐ろしき事態の生じる前に,式神の宿る腸を御自身から分離され,追捕の攻撃より見事に防御されました」 「調伏された相手に心服しておるのか」  いつの間にか上人の姿に立ち戻った兆呂斎が目を伏せた。「……最初のうちは八つ裂きにしてくれんと隙を狙っておったのですが,保輔さまとは心服せずにはおられぬお方でございます。私を腰の砕けるほどに打ち据えたのち,胸をおはだけになり,心の臓を食らえと仰せられるのです――私めは悔悛し,善行を積み重ね,漸う数百年のちにお怒りをお解きいただきました」 「恰も保輔殿の生きているかのような口ぶりだな」 「さようでございます。保輔さまは転生し,平安とは別の時空においでです。私は保輔さまを主君と戴き,働かせていただいております。今宵もある方の旅路を警護するお役目を仰せつかり,この世へと馳せ参じた次第でございます。ゆえに役目に戻らねば……」  従三位参議は兆呂斎の法衣を摑んだ。「そちは役目のためだけにここへ参ったのか――」 「……悋気に駆られ参上したのです……」 「悋気とな?……」手を離し,じわりと退いた。 「お近づきすれば御迷惑になるとは承知しながらも,あやつめの言いなりになる宗さまを拝見しておりますと自制がききませなんだ。それにかようなことを申しますと不遜ではございますが,私には求められているように思われたのです。何ゆえ宗さまは禁断の領域である木立へお入りになったのでございましょうや……私で宜しければ何なりとお申しつけくださいませ」 「忠臣は二君に仕えぬものぞ」 「私には宗さまこそが最初のお人なのです。宗さまのあられたからこそ,人というものに近づいてみたいと欲しました」  馬の嘶きが風に運ばれた。一気に感傷が冷めていく。別荘の方角へと視線を馳せる。「もう行け――」声を潜めて短く告げるなり,従三位参議は背をむけた。 「木立でお待ちしております。宗さまの御要望に添うよう努めます。命をとること以外はお任せくださいませ」  背筋に不快な汗が流れた。 「――それから宗さま」兆呂斎との距離は既に大分あいたはずであるが,その声は耳もとで聞こえる。「清原致信殺害事件には隠蔽されたもう一つの企てがございました。襲撃現場の清原邸には致信殿の妹である清少納言もおりました。彼女は書きかけの文書を強奪され,無益な執筆活動を行わぬよう脅迫されたのでございます。その文書とは道長や中宮彰子勢力の不都合を書き溜めたものでした。文書を闇に葬り,真実の代弁者に圧力をかけることにも事件の目的があったのです。指示を下したのは道長です。真実の代弁者として記録する所為は危険を伴います。ですから,ねえ――口惜しくはございましょうが,これまで執筆された世情に纏わる記録を御処分ください。でなければ,やがて筆禍を被りなさいましょうや」  振り返れば,誰もいない。  家人の声がかかり,頼通乳母子の来訪が伝えられた。同時に頼通本人の来ないことを知る。気持ちが軽くなる。空の月を見あげ,式神に礼を述べた。
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