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清原致信殺害事件
別荘の樹林を彷徨する上人に饗応を尽くせば源頼親の命により清原致信の虐殺された寛仁元年の事件が話題にのぼった。頼親の郎等である当麻為頼が亡き者にされた報復として,事に関与した致信が惨殺された20年程前の一件である。
騎馬武者7,8騎と10余人の歩兵らになぶり殺されつつも,為頼の非を訴える致信の申し立てを上人は耳にしている。
すなわち寛弘3年,大和国の豪族為頼は興福寺との所領争いから興福寺領地の管理官を殺害したものの,大和守頼親に擁護されて罪に問われなかったのである。かねてより大和国では所領の利権に絡んで貴族や寺社,在地豪族が競合を繰り返していたが,為頼の所業と事後経緯は敵対勢力の積年の憤懣を一気に爆発させ,興福寺大衆の濫行を頻発させる契機ともなっている。
「為頼は,頼親殿から預かる土地の所有権を巡って,紛争相手の興福寺関係者を殺したのだ」別荘の主従三位参議が口をひらいた。「そもそも殺害は頼親殿の指示であったとか」
「いかにも仰せのとおりで」上人は頷いた。「為頼に殺害を指示したのは為頼の主君であり,為頼の殺害を指示された致信殿も,為頼の主君が郎等を使って殺害したのでございます」
「成程,郎等どもは主君の指示に従い,殺したり殺されたりだな。主君こそが悪者か?」
「滅相もございません,悪者などと……」
「一連の事件は,郎等どもの背後で糸を引く主君たちの関係が顕在化したものと言えような。頼親殿は摂津国や大和国の領地取得に際して有力寺社だけでなく,国守とも争うことがあった。その国守のなかには致信殿の主君であり,頼親殿にとって親族の藤原保昌殿があった。致信殿に対する襲撃は保昌殿の甥にあたる頼親殿の兄 頼光殿の差し金であるとも囁かれていたほどだ。そして道長さまの家司としてお仕えし,共に武勇の名を馳せた保昌殿と頼光殿には確執があった」従三位参議は充血したような薄い唇をなめた。「頼光兄弟は致信殿を殺して保昌殿に返報した。原因は為頼を殺害されたことにある。一方,為頼の殺害は大和国の領地争いの上で保昌殿に障壁となる頼光・頼親兄弟の力を削ぐことにあった」
「保昌さまは欲得のためだけに殺傷を指示するお方ではございません」
「うふふぅ……」従三位参議は長い睫毛の奥から横流しの視線を送り微量の笑みを漏らした。「彼ほど名うての強欲もおるまいて」
「家を守るために強欲となるのです。権威の要望に応え,家の安泰を約定してもらうためにはいかなる生き恥も厭わぬものではございませぬか」
澄みきった眼差しを直視するすんでに,従三位参議は両眼の焦点を故意に狂わせた。
眉間や目もとに刻まれる幾筋もの皺と緋色の法衣から一見して上人を年配者と解していたが,物静かな口調ながら,やや頰を上気させて保昌を弁護するありさまには瑞々しささえ感じられた。
「保昌さまは,興福寺の僧兵から為頼一派の横暴を懲罰するよう請われたのです」
「興福寺の僧兵から? 頼光・頼親兄弟に対抗する諸々の勢力の利害関係が一致したというわけだな」
「僧兵は興福寺関係者の殺害される以前より,為頼やその主君に強い恨みを抱いておりました。それは保昌さまも重々御承知の御事で……保昌さまと僧兵は旧知の間柄であったのです」
「いかなることか?」
「僧兵は保昌さまの弟君,保輔さまにお仕えしていたのでございますよ」
藤原保輔とは宮廷官人でありながら,幾多の悪行を重ね,追捕の宣旨を15度も被る盗賊の首領として恐れられた豪傑である。自身の捕縛に付される褒賞が巷を騒がせるなか,父 致忠の虜囚の身に落ちたことを危惧して交渉に出向くものの,謀られてかつての郎等に捕らわれ,自ら腹をさき,腸を引き抜くという凄惨な最期を迎える。
「保輔さまに大層お世話になった者どもが手の平を返すように背叛したのです。最後まで御奉仕した童は,保輔さまの御命令により逃げのび,やがて興福寺に入り,保昌さまに返報を願い出る僧兵となるのでございます」
「返報と言うが,頼光・頼親兄弟や為頼が何をしたのだ? 僧兵に恨まれるような悪事を働いたのか?」
「それはもう大変な悪事で――あの頼親めは,保輔さまを頭領とする盗賊の一味でございました。あの頃から為頼を従えて人の嫌がる汚れ仕事を率先して為したというのに,保輔さまの捕縛に法外な褒美がかけられた途端,あやつめが独断で行った殺人を保輔さまの命じたものとして郎等に申告させたのです。追い討ちをかけるように兄の頼光が悍ましい工作活動を繰り返しました。次々と郎等を出頭させ,保輔さまを陥れるための虚偽の自白をさせたのです。自らの束ねる武装化勢力の枚挙に遑なき殺傷や窃盗を保輔さまの所為として上申させたのですから,あまりに卑劣ではございませんか」
「さような裏工作がよくも罷り通ったものだ」
「強大な後ろ盾がありましょうや」音もなく上人が滑り寄る。「実はその後ろ盾こそがあやつらを扇動し,保輔さまを自害に追いこんだ首謀者なのでございますよ」きめ細かな皮膚に包まれる湿ったような顔面を接近させて耳打ちする。
異様に冷たい呼気が耳孔を搔きまぜながら体内を浸食し,まだ蒸し暑い菊月の明るい空の下で従三位参議は身震いした。3人の随身だけを伴い夜を駆け抜ける頼通の来訪が今にも告げられるのではないかと思われた。
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