50人が本棚に入れています
本棚に追加
午前六時に従業員用の鉄扉を開けると、高い確率でネズミに出くわす。太っていて凶暴そうなネズミ。
たまに脚のきれいな女の子が死にそうな勢いで吐いている。
でも死んでない。
高そうなスーツを着た若い男が花束に向かって唾を吐いていることもある。
午前六時、この街はいちばん物悲しい素顔を晒す。
僕もたまにそのシフトに入る。労働の後の爽やかさなんて皆無だ。
ホラー映画風モニターが来客を告げていた。
ミオはジャケットを脱いだ。黒いタートルネック。意外にがっしりと骨張った肩と折れそうに細い手首。
僕は後ろ手にドアを閉めた。
あのか細い手が客を導くところを、見てみたいとは思った。
ミオは午前六時にどこへ帰って行くのだろう。彼女に帰るところはあるのだろうか。
従業員用の通路をすり抜けて、スマートフォンで端末に触れ、重たい鉄製の扉を開ける。
ゴミの臭いとラーメン屋のスープの匂い。
午後八時でも荒んだ場所であることに代わりはない。
中世の城壁みたいなビルとビルの間の路地。
ここで火災が起こったら確実に死ぬ。確実ってすごいなと僕は思う。
耳にイヤホンを突っ込んだ。
バッハのインベンション。世界と僕の間に薄い膜が生まれる。
右手と左手ともに単音のポリフォニー。強弱の少ないバロック時代のピアノが好きだ。
単音が積み上がっていく様が心地いい。
わざと西口側の高級ホテルのイルミネーションをひやかして帰る。
足首から寒さが這い上がってくる。
最初のコメントを投稿しよう!