暁の友の歌

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               蓮竜歴359年 スラン盆地の拝竜寺院付近  トーラはいつだって早起きだ。まだ暗いうちから起き出して、寺を抜け出し、蓮沼へと走る。そして、誰にも気づかれないうちに、また戻ってくる。トーラの身体は軽やかだ。裏庭の漆喰の壁の、トーラしか知らない小さな穴から寺を這い出て、丈の高い藪をかきわけて進み、小川をいくつも飛び越え、半刻もせず沼へたどり着く。暁の蓮沼は静かで、まだ蝉も鳴き始めていない。  やがて東の空から朝日がさし、蓮沼は稲穂の海のように黄金色に輝きはじめる。白、黄、紅、薄紅色に濃紫。水面に顔を出した色もあざやかな蓮のつぼみは、まるで祈る両手のように、ぴたりと花弁を閉じている。これから陽光を浴びてすこしずつ開いてくるだろう―水面に宝石を散りばめたみたいだな。トーラはうっとりと眺める。そして、いつものように、水底に向かって、歌でそっと呼びかける。 「クマル、クマルや、クマルアシュナガルよ、水底より生まれしおさなき竜の子、紫(し)に紅(くれない)に鱗きらめき、まばゆきひかりをその翼に戴(いだ)き、深き泥の水底より目覚めよ、竜の子クマルアシュナガルよ。」    トーラは沼のほとりのたいらな小岩に腰掛けている。いつも座る小岩だ。脇にかかえてきた小型の竪琴を膝の上でかきならし、単純な旋律にのせて、その言葉をくりかえし朗唱した。兄弟子(あにでし)のウッカルが譲ってくれた、マンゴーの大樹の幹と天馬のしっぽの毛とで作られたというその竪琴は、トーラのたったひとつの宝物だった。つまびくと、水の滴りのようにうっとりとした音色が響いた。  トーラの歌で目をさましたかのように、鳥たちがいそがしそうに鳴き声を交わしはじめる。その声とトーラの声とが交じり合って水面を渡る。いつのまにか、蝉たちもその合唱に加わり、沼のほとりの木から木へと、飛びまわりはじめていた。トーラはじっとりと汗をかきながら、空を見上げ、水面を見つめ、節を変え、音階を上げてはまた下げ、同じ文句で半刻もその歌を歌い続けた。  そのあいだに、一筋の雲が風に流れてきて太陽を隠し、通り過ぎて、また太陽が水面を照らした。その瞬間、琥珀色の沼の底からざぶりと音がして、きらめく鱗とたてがみの、宝石細工かと見まごうばかりの美しい生物が、水をぽたぽたと滴らせてトーラの前に姿を現した。 「やっと起きたね。おはよう、クマル。」  紅と紫の鱗に銀の翼をもつ生き物、竜の子クマルアシュナガルは、幼いながら、この沼の二代目の主だった。先代の老竜は、この前の乾季で沼が乾いたときに弱って死んだ。その最期のときに、トーラは偶然、この沼を見つけたのだった―あるいは老竜がさいごの念力をふりしぼり、雲を呼び寄せるように、トーラという少年を自分の沼に呼び寄せたのかもしれなかったが。経典の書写に飽きて寺をこっそりと抜け出し、周囲の藪を探検しているつもりが、いつのまにか小川をいくつも飛び越えて遠くまで来てしまい、そろそろ帰ろうかと思っているときに、トーラは沼と老竜に出会ったのだった。 「ここに、わしのあと継ぎが眠っておる。雨季になって雨が降れば、一輪の虹色の睡蓮が咲く。その中からわしのあと継ぎが目を覚まして出てくる。おぬし、人間の子供よ。その竜の子の友となっておくれ。おぬしの知ったことをなんでもこの子に教えてやってくれ。ただし、この沼とわしら竜のことはだれにも言ってはならぬ。竜の子は当然じゃがなんの知識もなく未熟で弱い。竜の子を捕えて殺してしまう、良からぬ輩の耳に入るやもしれぬ。わしも、まだ術を覚えぬ幼いうちは幾度も、あぶない目にあったぞよ。つまりこれは、おぬしが心根の優しい正直者と見込んでの頼みじゃ。わしはもう死ぬ、いま死ぬ。身体が乾いて、もう動かぬ。この子には世界のことや経の読み方を教わるための人間の友が必要じゃ。わしの望み、おぬしならば、かなえてくれようの?」  竜はこの地方の言葉を話した。むかし人間の友達から習い覚えたのだろう、すこし古めかしい、しかし流暢で美しい喋り方だった。トーラは聞きながら夢中でうなずいていた。沼は枯れ、たくさんの睡蓮は乾いて固まった泥の上に干からびてしぼみ、沼の主らしき老竜はその硬い腹と顎(あぎと)とを地面につけて、喋りながらもどんどんしぼんで、硬く、小さくなっていくのが分かった。トーラは安眠作用のある経文の朗唱をはじめた。稽古ではなくだれかのために経を読むのは、それが初めてだった。歌ったのは、ちょうど、さっきまで寺で書写していた経典のなかの歌だった。それは実用的かつ易しい経典で、子供むけの百の説話とそれに因む百の短い旋律とを記した歌集だった。トーラのようなまだ幼い経読みが、師匠から課題として繰り返し書き写しや朗唱をさせられる基礎的な書物だ。  そのときトーラがとっさに歌ったのは、その経典の十六番目にある、病気の竜の苦痛をやわらげるために千夜も歌い続けたという王女様の説話の歌だった。擦り切れるほど朗唱や書写をして、百の物語と歌のほとんどは頭に入っていた。歌いながら、竪琴を持って来なかったことを後悔した。拍がとりにくい。とっさに、トーラはほとりの小さな岩に腰掛けた。左の足を打ち、体を揺らし、拍子をとった。寄せては返す波のような、ゆったりとした四拍子。とたんに歌いやすくなった。老竜の身体も心もすこしでも安らかになるよう祈りながら、単調な節を繰り返し歌った。トーラの捧げた歌を聴きながらもどんどん縮んでいき、ついには息を引き取った。終わったころには全身が汗びっしょりで、太陽は空の真上に昇っていた。死んだ竜はもはや竜ではなく、朽ち果てた巨木の残骸となって沼のほとりに横たわっていた。たぶんこれはハクモクレンの巨木だなと、トーラはぼんやりとした頭で考えた。歌いながら白い花も満開のハクモクレンの美しい大木の姿が、なぜかずっと見えていたからだった。生きているあいだ、この竜はたびたび、白い花咲くハクモクレンに姿を変えて、人間の目から己の真の姿を隠したり、虫や鳥たちをその滑らかな枝に憩わせたりしていたのに違いなかった。  急いで寺に戻ったが、竜と沼のことは誰にも言わなかった。すこし抜け出すつもりが、密林に迷い込んでなんとか帰ってきた、と嘘をついた。午までの勤めを果たさなかった咎で年寄りの師匠にこってりとしぼられ、罰として日が暮れるまで古い石塔の苔磨きをするように命じられた。教育係のウッカルまでもが、トーラの監督を怠ったとして大目玉をくらい、やはり苔磨きを命じられた。ほんとうは何があったのか、と聞かれるかと思ったが、ウッカルは何も聞いてこなかった。ただ、古い石塔に掘られた文様のなかに蝉だか蝶だかの彫刻がある、知らなかった、などと言ってしきりに感心していた。トーラは生まれて初めて見た竜の姿とその死を思い出し、ずっと心ここにあらずのまま、黙々と苔磨きをし、ウッカルの歓声に生返事で相槌を打っていた。老竜が最期の力をふり絞ってトーラに秘密保護の術でもかけたのか、その後も蓮沼の存在が寺の誰かにばれてしまうことはなかった。朗唱中に見たハクモクレンの幻影は、きっとその術のために老竜が自分に見せたものだったのかもしれないと、トーラは思う。                 ―そして、いま。二代目の沼の主であるクマルは、ほとりにちょこんとたたずんで前肢(まえあし)を行儀よくそろえ、沼の底とおなじ琥珀の瞳でトーラを見つめている。まだ幼い竜らしく、瞳がとても大きくて、人語もほとんど覚えていない。人間と親しくつきあったことのある竜でなければ、人語を覚えないままなのだ―竜同士は、夢の中で他の竜と交流するから、竜語は夢の中でも覚えるのだが。クマルの瞳はいつも、トーラと、トーラの言葉への好奇心に満ち溢れきらきらと輝いていた。トーラはクマルが覚えやすいように、明瞭な発音でゆっくりと、話しかける。 「今日は、クマルに、あたらしい呪文をおしえるね。」  トーラには、まだ弟分(おとうとぶん)がいなかった。寺の中でもいちばん年下だったから、いつだって、<経読み>のお師匠様や兄弟子たちから、経文やら、細かな寺のきまりごとやらを教わるほうの存在だった。いつも朝の祈りの時間には、兄弟子のウッカルの隣に座り、口ではきまりどおりに始祖蓮竜さまに護国の経文を捧げつつ、心のなかでは「どうか今日こそ、僕よりも小さい子が入門してきて、僕がその子の教育係に任命されますように。」と繰り返し祈っていた―ウッカルにもそのことは内緒にしていた。知られたら怒られるだろうか、それとも笑われるのだろうか。  古代の言葉で「琥珀の瞳の四足竜」という意味のクマルアシュナガルという名前もトーラが名づけた。毎朝、寺を抜け出して蓮沼に通い、自分の弟分として教育しているつもりだった。死にゆく老竜と出会ったのが乾季のとき、つまりもう半年も前だが、教育係のウッカルでさえ、トーラの抜け出しに気が付いていなかった。トーラはウッカルの見習いということで、ウッカルの小さく粗末な僧坊で、ともに寝起きしていたが、ウッカルはよく眠る男で、朝が弱いうえに、経文と虫の観察にしか興味がなく、人間相手にはとても淡泊な性質だったので、トーラの朝ごとの沼通いには、まったく気がついていなかった。あるいは、気がついていないふりをして、自由にさせてくれているだけかもしれなかったが―だが、そんなウッカルも、ひと月前に、ずっと西の、スパティーカ峠の戦場へと呼ばれて行ってしまった。  ウッカルは烏のような黒い髪と瞳の、小柄で痩せた男で、腕力はなかったが、読経をさせたら右に出るものはいなかった。戦場ではウッカルは、額に青筋を立て、体じゅうに滝のような汗をかいて、落雷や豪雨の読経を三日三晩飲まず食わずで唱え続けるという。激しい雷雨で敵を足止めし、あるいは敵陣に土砂崩れを起こしてひとつ役目を終えれば、魂が抜けたようにどさりとその場に倒れこんで、こんどは三日三晩、死んだように眠り続けるのだという。膨大な数で山腹のあちこちから姿を現し、峠を越えて攻めて来ようとする、北西の草原にくらす遊牧民たちは、ウッカルのことを「黒雲を操る烏の悪魔」と呼んで恐れていると、噂で聞いた。悪魔とはほど遠い穏やかで声の麗しい男だが、読経している姿を遠目に見たらたしかに浅黒い肌の眼光鋭い悪魔に見えるのかもしれなかった。  トーラは心配だった。そんな命を削るような経の読み方は、ウッカルにしてほしくなかった。昼まで寝て師匠である僧正たちに怒られたり、虫を捕えては子供のように目を輝かせてトーラに見せてくれたりするウッカルでいてほしかった。ウッカルは元気で戦場から帰ってくるだろうか。トーラはずっとそのことばかり考えていた。十年前、寺の前に捨てられていたまだ赤子のトーラを最初に見つけて、「光」を意味する「トーラ」と名前を考えたのも、そのとき十歳だったウッカルなのだ。自分も孤児だったウッカルは、素っ気ない性格ながらも、トーラを本当の弟のように思い、ずっと側にいて世話を焼いてくれたのだ。いっそのこと、自分もスパティーカの戦場に行きたいとトーラは思った。そしたらウッカルの手伝いをすることができる。雷雲を呼ぶことはできなくても、負傷した戦士たちのために悪夢を取り除いたり治癒を早めたりする経を読むことならできる。疲れたウッカルにも歌ってやることができる。  そうした<経読み>の技を寺の門外の人間に教えることは、大昔に始祖蓮竜を救いこの国を建てた初代王の法律によって、禁じられている。しかしこの小さな蓮沼の二代目の主(ぬし)クマルアシュナガルは、人間ではなくて竜の子だ。トーラは先代の老竜との約束を果たすつもりで、自分が習い覚えた経はすべてクマルにも教えようと心に決めていた。  竜の宿る場所で経を読み祈りを捧げることは、王族貴族や<経読み>ではなくとも、商人も農夫もその子供たちも、朝に夕に、よく行うことだった。竜は鳥や蛇に似た者、獣に似た者など形も大きさも様々だが、いずれも天地を統べる始祖蓮竜の子孫であり、樹木や洞、池に沼に川に湖、磯に浜に泉に岩、その場所が気に入ればどんなところにでも宿る。心を許した人間以外には真の姿を見せないが、植物や鳥獣、虫に魚、ときに人の姿に変化し、人のふりをして人と親しく交わることはとくに好んだ。人間は竜の宿る場所を祀り、祠をつくって日々、花や菓子などのささやかな供物と祈りと経を捧げる。人間の信仰心を竜が好み、人間の捧げる読経の声が竜の力の源にもなっているからだ。しかし一方で、ときにその鱗や牙やたてがみを薬や宝飾品とするために竜の命もろとも奪う〈竜狩り〉の人間も存在した。その多くは、もともと竜を信仰しない、北方の砂の民や荒野の民の人間だった―彼らは星を信仰し、竜は月に属する貪欲な霊獣で、星を呑んでしまう邪悪な存在だと考えていた。竜を狩って鱗や牙を売りさばくほか、自分たちの祀る守護星への捧げものとすることもあった。竜は太古の昔から、〈経読み〉の友を得て、雷や風を起こす呪文や変身の呪文を覚えることで、そうした〈竜狩り〉の民族たちに、対抗してきた。竜から竜へと、経文が教授されることももちろんあったが、竜は人の声を好むので、人から教わることをより好んだ。 「今日教えるのは、化身の経文。人間の姿そっくりに、クマルの姿を変えるお経だよ。まずは、僕そっくりの姿になってみよう。やってみるかい?」  クマルの琥珀色の瞳が、朝日の中できらりとひらめいた。そのとき沼にふわりと風が吹いて、金の水面を波立たせた。トーラはそれが、ずっと西のスパティ山脈、ウッカルのいる大地から吹いてきた風、戦場の風だと感じた。 「トーラ。」と、ウッカルの呼ぶ懐かしい声が、一瞬耳に響いたからだった。湿った風の中に、血と鉄と砂の交じり合う匂いをはっきりと嗅いだからでもあった。同時に、脳髄と背骨には激痛が走り、黄褐色の地面に真っ赤な水たまりが見えた。一筋の赤黒い筋が川のようにどくどくと流れ、赤い水たまりとなって拡がっていく―これは血だろうか?誰の血だろう、僕か、それともウッカル?突然襲う感覚にトーラは思わずその場にうずくまり、倒れこんだ。すると今度は、口の中に血と砂の味が満ち、何者かの足にこめかみをひどく踏みつけられて頬骨と眼球が硬い地面にめり込混む錯覚に襲われた―草履ではない、木と毛皮とで作られた遊牧民の硬く丈夫な靴だ。ウッカルが遊牧民に襲われた、風はそうトーラに告げているかのようだった。だが、風はすぐに止み、金の水面は再び鏡のように、時折おだやかにきらめいては静まり返っていた。  トーラは起き上がって竪琴を胸に抱くと、不安な予感を打ち消すように、クマルに向かって歌い始めた―きっと考えすぎた。ウッカルが行ってしまってから、あまりに僕は寂しくて、そのことばかり考えすぎるから。でも今は、こうしてクマルがいてくれる。クマルは僕の大切な友達だ。この子は竜の子だ、何千年も生きる。たとえ僕がいなくなっても、また新たな人の友と親しく交わることのできるように。僕はこの子にはじめての言葉と呪文を教える。僕はこの子にとってはじめての友だ―どうか、この竜の子にとっての僕が、僕にとってのウッカルのように、心を照らす頼れる友となれますように。              **               蓮竜歴648年 アットラ地方 アルカ村の宿屋 「おーい、クマルー。もう行くぞー。どこだー?」    仲間の呼び声で僕は夢から目覚め、慌てて飛び起きた。寝床の藁がそこいらじゅうに飛び散り、近くにいた山羊とめんどりが驚いて素っ頓狂な鳴き声を立てる。ここはどこだ?ああ、そうだ、アルカ村の宿屋の馬小屋だったな。ぼくはどうやら、ずいぶん昔の夢を見ていたようだ―大昔、はじめてぼくに言葉と世界と経文をおしえてくれた、懐かしい人間の友。    そう、ぼくは竜のクマル。人間の姿に化身して、旅する人間たちの供となり、世界のあちこちを見聞してきた。そんな暮らしをして、もう三百年ちかく経つ。夢の中では仲間の竜たちと交流することもあるし、懐かしい過去の旅を夢に見ていることもある。  部屋を抜け出して馬小屋で眠っていた僕を、仲間が探しているようだ。人間の布団はどうも寝心地が良くない。馬小屋の藁の中ほうが、ぼくはよく眠れるのだ(さらにいうと、ほんとうは水底の冷たい泥の中で眠るのが好きなのだが、あいにくこの村にはそういう場所がなかった)。ひとこと言っておけばよかったな。いまの相棒、パースとはまだ知り合って日が浅い。ここアルカ村近くの鍾乳洞に、近頃、魔物が住みつき、それをいっしょに退治する仲間を城下町の酒場で探していたパースにぼくが声をかけた(パースと出会う前は隊商にくっついて砂漠地帯を行ったり来たりしていた)。  そうだ、さっきの夢の話。ここから海を渡って東の大陸の、熱帯の森の蓮沼で、沼の主としてひっそり生まれ、まだ何も知らなかった臆病なぼくのところに、ぼくのはじめての人間の友、トーラは毎朝会いに来てくれた。朝露のきらめきのような美しい声で、言葉と世界とを教えてくれた。経文で身を守る術も教えてくれた。ぼくの友となり、交歓の喜びを教えてくれた。 そうして雨季と乾季が三つ巡ったある年、すっかり大人の声になったトーラは、兄弟子だったウッカルと同じ、スパティーカという名の峠の戦場に呼ばれて行ってしまった、そして二度と帰っては来なかった。  戦場に行く前の日、トーラはその赤い瞳によく似合う亜麻色の髪を、アムパの実の果汁で烏のように真っ黒に染めて沼にやってきたので、ぼくは驚いた。「ほんとうにトーラ?」とぼくが思わず聞くと、「トーラであり、ウッカルだ。ぼくはウッカルになって、ウッカルのかたきを討つ。やっとこの日が来た。ぼくは呼ばれるのをずっと待っていた。もう敵が来られないように、ぼくの声で山の斜面ごと雨で崩して見せる。きっと、命とひきかえになる。だから、クマルと会うのは、いまが最期だ。」そう言ってトーラは、ぼくに小さな銅の鏡をくれた。さびしくなったら、トーラの姿に化身してこの鏡を見るようにと、そして、たくさんの友と出会いがあるようにと、そう言い残して、トーラは蓮沼を去っていった。  その後、ぼくは先代の竜のように沼にとどまる道を選ばなかった。あと継ぎではあったが、沼のことは、ほとりに咲きほこる黄金雨花の精たちに任せ、自分は旅に出た。トーラの、人間の、面影が恋しかったし、トーラから聞いた世界についてのたくさんの話が、本当なのかどうか、この目で確かめたくもあった。花の精たちに三百年後に必ず戻ると、約束してきた、その三百年がもうすぐやってくる。―戻るのだ、あの懐かしい場所へ。でもいまはまだ、亜麻色の髪と赤い瞳の人間の青年の姿で、パースの相棒として旅を楽しもう。  馬小屋の藁の中では、いちばん楽な琥珀色の蛇の姿で眠っていたので、あわてて経を唱えて人の姿に化身する。パースにはまだ蛇の姿すら見せていない。パースはぼくのことを、東の国から来た旅の経読みだと思っている、ぼくが本当は竜だと知ったら、パースは驚くだろうか。肝の据わった男なので、案外、なんとも思わないかもしれない。 「パース、ぼくはここだ、今行く!」  馬小屋から出る寸前、懐の小さな銅の鏡を出し、一瞬だけ覗いた。そこには、亜麻色の髪と赤い瞳の青年の顔が晴れやかに笑っている―ぼくの人としての顔でもあり、ぼくのはじめての友、トーラの顔でもある。ほんとうは、トーラと二人で、こんな風に旅をしてみたかったな。いや、トーラはいつもぼくといっしょだ。この鏡の中に、そしてぼくの心の中に。朝の明るい光の中、ぼくは藁くずをはらいながら、ぼくを呼ぶパースめがけて走り出していた。
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