レコーダー、文明を掘り起こす

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レコーダー、文明を掘り起こす

〈レコーダー〉はぎらつく太陽のもと、〈断絶の砂漠〉で死の淵をさまよっていた。  最後にありついた水がどのくらい前だったのか記憶はおぼろげ、まともな食事ともなれば生まれてこのかた口にしたことがないというありさま。〈カタストロフ〉後の一人旅はすべからく厳しい。  つぎ当てだらけの外套に包まれた身体は痩せ細っているが、ターバン式に巻いた布きれからは豊かな黒髪がのぞいている。不潔で砂まみれではるものの、〈レコーダー〉は気にしているようすもない。飢餓と脱水が同時に牙をむいているにもかかわらず、彼はのんきに鼻歌を口ずさんでいる。死ぬときは死ぬ。そういうものだ。 「さて、ようやく見えてきたぞ」大きく伸びをした。「あれが〈エスぺランザ〉か。話に聞いてたよりずいぶんこじんまりしてるが……」 「ようこそ旅の人」とゲートを守る屈強な男。胡散臭そうに眉をひそめている。 「ハロー。ぼくは〈レコーダー〉。各地を旅してる」 「風来坊がうちになんの用かね?」門番は突撃銃(骨董品)を突きつけた。「よそ者にはあんまり立ち入ってほしくないんだが」 「〈エスぺランザ〉は文明的な市民の集う最後の都市だと聞きましたがね」  これは効いた。住民には例外なく文明継承者としての自負があるのだ。「いいだろう。入れ」 「その前に水を一杯いただけないかな」  彼は折からの脱水症状により、その場にくずおれた。  耳に快いリズムで〈レコーダー〉は目を覚ました。「ここは……?」  上体を起こして周りを睥睨する。殺風景で実に質素な部屋だ。ここが客室だとしたら世も末である(もっとも世は文字通り末を迎えたわけだが)。 「気がつかれましたか、旅の人」と見知らぬ女。何本かの糸を張った大きなひょうたんを抱えている。彼女がそれをつま弾くと、驚くほど美しい音色が部屋中を席巻した。 〈レコーダー〉は目を見開いた。「たまげたな。いったいそれはなんです」 「ギターを知らないの? あなた〈レコーダー〉だって聞いたけど」 「ぼくだって知らない利器はあるさ。だからこそこうして世界を放浪してるんじゃないか」  彼は文字通り記録者である。〈カタストロフ〉で失われてしまった技術や文化を少しずつ掘り起こして蓄積し、いつか再興しようと夢見る人びと。  もし博打に勝ちたいのなら、数世紀後に誰も彼もが石器時代に逆戻りしているほうに賭けるべきだ。その逆ではなしに。ところがどうだ、この年若い〈レコーダー〉は新しく文明のよすがを見つけたではないか。 「それじゃ、俺たちのことを忘れないでくれよ」  部屋の片すみにいた肌の黒い男が笑いかけた。彼は二本のスティックで円筒形の物体を規則正しく叩いている。ドラムだ。「みんな入ってこい。このあんちゃんに一曲聞いてもらおうや」  黒人ドラマーの呼びかけを皮切りにして、客室にどっと人間がなだれ込んできた。みんなそれぞれが楽器を手にしている。〈レコーダー〉が呆気にとられているあいだにも彼らはおのおのの立ち位置に陣取り、にこやかに開始の合図を待っている。 「それじゃいくぞ」  タンタンタン。一拍おいて――ついに演奏が始まった。  音の洪水がちっぽけな部屋を席巻する。それはまさしく芸術だった。〈エスペランザ〉の人びとがこれをかたくなに守り続けた理由が彼には理解できた。魂を揺さぶる楽の音は、日々の擦り切れた生活と引き換えに死なせるにはあまりにも惜しい。 〈エスぺランザ〉の人びとはまぎれもなく気高かった。彼らは楽器を湿気や乾燥から保護し、食物の栽培にかけるべき時間を惜しんで演奏技術を維持してきたのだから。 「すごい」〈レコーダー〉は息を呑んだ。「すばらしい」  そして気づいた。これは維持なんかではない。そんな保守的な態度では断じてない。創造だ。彼らは明日の飯にも困る当節、文明を積極的に進化させているのだ。  もう黙ってはいられない。彼はリズムをとりながら演奏に加われないものかと思案する。ところが楽器がない。それは文明の最後の砦たる〈エスペランザ〉にすらほとんど現存していない貴重品なのだ。  楽器がなんだ。彼はリズムに合わせて手拍子を打ち始めた。そうとも、音楽は楽器で演奏するばかりが能ではない。誰だってそれに参加できる。心臓に耳を傾けてみるがよい。規則正しいエイトビートが拍動を刻んでいるではないか!  演奏会は三十分以上もぶっ続けで催されたあと、余韻を残して名残惜しげに閉幕した。〈レコーダー〉はギターを操っていた若い女と握手を交わし、拳を振り上げて誓った。 「ぼくは生涯忘れないぞ。そして世界に広めよう、このすばらしい文化を!」  この瞬間、廃墟でくすぶっていた文明は不死鳥のごとく舞い上がり、疾駆し始めたのである。
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