12月24日

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 クリスマスイブの夜に離婚の、それも最後の最後になる話し合いをセッティングするなんて、彼は何を考えていたのだろう。  いや、あの男の考えなんて、どうせ至極単純なものだ。年の暮れに面倒事を一気に片付け、新年早々から気持ちよく大好きな仕事に集中したい。きっと、それだけだったのだ。どこまでも、仕事中心。それ以外のことには関しては全く頭が働かない、つまらない男だったのだから。  都心にある弁護士事務所で必要な全ての書類に判を押した後、イルミネーション輝く並木道をカップルに揉まれ歩きながら、宇佐美萌黄(うさみもえぎ)は“元”がついて間もない夫を酷評した。結婚前に惹かれていた彼の数々の美点は、一つも評価に反映されることはなかった。そうして、萌黄が頭を落ち着かせられないまま歩いている間にも、久し振りに履いたパンプスで作った靴擦れの痛みは、段々と増していった。  おそらく、もう二度と会うことのない男との最後の面談だった。彼にいい女を手放したものだと思わせ、少しでも後悔させてやりたかった。  ゲーム漬けの生活で浮腫み不細工になっていたフェイスラインは入念なマッサージで整え、徹夜によって出現した目の下のクマはコンシーラーを何層も塗り重ねて隠し、ケアを怠けていた証しである顔全体のくすみはパール入りのパウダーでとばした。  運動不足により弛みかけていた身体にはコルセットをきつく締め、バストメイク、ヒップメイク効果の高いブラジャーとガードルにも脂肪を押し込めた上に、タイトなロング丈のニットワンピースを装備した。  そして仕上げに履いたのが、いつだったかに自分へのご褒美として買った十センチヒールのパンプスだった。お洒落は我慢と言うが、それから与えられる痛みは苦行の域に達していた。  どこかの店で、いったん休もう。萌黄は軒先に電球を垂らしたカフェの店内を、ガラス越しに覗いた。中は若いカップルたちで満席だった。どの席でもみつめ合ったり、いちゃつき合ったり。彼らの前にあるコーヒーの温度と残量が如何ほどかは知れないが、どの客も一向に席を立つ気配を見せなかった。しかし、席が空いたところで恋人たちばかりの空間にお一人様で飛び込む勇気は、萌黄にはなかっただろう。  萌黄はその店への入店を諦め、別のカフェを探した。だが、他のどこの店も同じ状態で、普段は中流のマダムが時間を潰すのに使っているような喫茶店でさえ、今日はカップルたちに占領されていた。  店を探し歩くたった数分間のうちにも、萌黄の靴擦れは悪化していった。少し以前までの萌黄が同じ状況下にあったならば、迷わずタクシーを使って帰宅したことだろう。自宅までのタクシー代が何万になっても、それはすべて高収入の夫の稼ぎから支払われるものだったからだ。  だが今は、これからは、そうはいかない。萌黄はお目こぼしでなんとか確保した多くはない預金だけで、来月中には引っ越し、これから探す仕事の給料日まで食いつないでいかなければならない。  今晩この世から消失したらしいカフェの空席探しを断念した萌黄は、取り敢えず擦り剥けた箇所を絆創膏ででも保護しようと、ドラッグストア又はコンビニがないか周りを見回した。どんな田舎にもまずあるそれらは、しかし何故か最も洗練された都会の表通りにだけは存在しなかった。  こうなったら、これから電車に乗り込むまで、ひたすら根性で痛みに耐えて歩くか。そう萌黄が覚悟しかけた時、目の前にいたカップルが歩道の端に設置されたベンチから立ち上がった。  チャンスだ。「そこ、空いたよ」互いの目を合わせた別の学生カップルをよそに、萌黄は涼しい顔で素早く空いた席に座った。突然現れた三十路女を妙な目で見ながら、カップルは去って行った。多分これから数分の間、彼らの会話の中心は年増への悪口だろう。  ようやく腰を落ち着けた萌黄は、上半身を屈ませ自分の踵の状態を確認した。思っていたよりも酷く皮が剥けていて、思わずしかめた。下にした頭の先を、歩行者が行き交う。人々の合間を縫って届く光がタイル舗装された道に反射するのが眩しかった。  萌黄は頭を上げ、ベンチの背にもたれた。こちらの歩道と、それより少し低い位置にある向こう側の歩道、両方の並木に纏わされた無数の光の球。それらのさらに奥で照り映える高級ブランドのクリスマス仕様のディスプレイ。さっきの学生カップルは店に入る金もなく、とはいえ、この平常とは違う雰囲気の街の中に二人で身を置いていたくて、このあたりをうろついていた最中だったのかもしれない。  幸いと言うか不幸にしてと言おうか、萌黄にはそういった思い出はなかった。これまで付き合ってきた男たちは、萌黄を寒い中ただ歩かせることなどしなかった。というより、寒い中でもただ恋人と歩いていられれば、それだけで幸せと思うような種類の男と、萌黄は付き合ったことがなかった。そして、これは幸せなことだと思うが、萌黄も付き合った彼らと同じような考え方だった。  だから当然、恋人たちが浮かれるイベントの真っ只中、寒風に晒された屋外のベンチに一人座っているなんて状況も、萌黄は経験したことがなかった。これから自分がどうなっていくかは、わからない。しかし、今のところは間違えなく、たった今が人生の底だと感じた。  思えば、これまでの萌黄の人生は恵まれていた。決して頭が良い方ではなかったが、容姿は人並みより抜けていたし、割となんでも器用にそつなくこなす才能もあったから、特別な悩みや苦労もなく過ごしてこられた。  恋愛に関しても、大して悩んだ記憶はない。失恋というものも経験はしたが、少し周りを見渡せば代わりになる男なんて、いつでもいくらでもいた。そういった恵まれた状況で選んだのが、本日今生の別れを済ませた元夫だった。  大学のサークル仲間の紹介で知り合った二歳年上の彼は、見た目も頭の良さも運動神経についても文句のつけようがない男子だった。おまけに、多くの女子たちから好かれてはいても、複数人と同時に付き合うようなこともない誠実な男だった。  誠実。彼がそのように誠実であったが故の、今の萌黄のこの身の上だ。  萌黄は大学卒業後、受付嬢として上場会社に短期間勤めた後、退職し結婚した。  夫は有能な上に仕事熱心で、休日にも深夜まで働くことがしょっちゅうだった。専業主婦となった萌黄だったが家事に遣り甲斐を見出せず、かといってフルタイムで働く気にもアルバイトで小金を稼ぐ気にもなれずで、毎日一人マンションで暇を持て余した。  そのうち、萌黄は退屈の憂さを買い物で晴らすようになっていった。それで済めばよかったが、毎夜孤独に過ごすことにも耐えられなくなり、ホストクラブに入り浸るようになった。  萌黄がそこまでしても、仕事優先の夫は妻をかまってやれない後ろめたさからか、萌黄を咎めるようなことは殆ど言わなかった。しかし、ホストの一人と個人的な関係を持ったことが夫にばれた途端、状況は変わった。  元夫が不誠実な男で彼に愛人の一人二人いたならば、離婚協議の展開も違っていただろう。しかし、留守がちだった夫は、興信所にどんなに探らせても女の影が微塵もない、純粋に仕事中毒なだけの色気のない男だった。当然、圧倒的に非があるのは萌黄の方だとされ、早期解決を望む相手側の事情により慰謝料こそ請求されなかったものの、ほぼ身一つで家から追い出される形となった。高収入の伴侶を得て安泰だと思われた萌黄の人生は、三十二歳にして一転した。  こうして振り返ってみると、萌黄の人生のピークは元夫と出会った大学生の頃だったかもしれない。若く可愛く美しく。どんなに高級な相手の横にいても自分が見劣りしない自信があった。だが、同時にこれから後、自分の女としての価値は下がっていく一方だと感じてもいた。  だとしたら、萌黄の一番輝かしかった時代は、まだ将来を深くは考えず、ただちやほやされるまま、いい気になっていた女子高生の頃か。違う。その頃には既に、萌黄は挫折を経験していた。  中学まで女子の中では学校一足が速かった萌黄は、高校でも中学に引き続き陸上部に入った。このままタイムを順調に縮めていける、全国レベルの選手になれると信じ切っていた。それが、人より少し遅れてきた身体の変化の影響か、次第に思うような記録が出せなくなっていった。自分より遅かった選手に抜かされ、過去の自分にも置いて行かれ、意外と繊細だった萌黄の心はポキリと折れた。  その後の高校生活ではガラリと見た目を変え、素行は悪いが見栄えがするグループの仲間に入り、仲間内の似たような男子たちとかわるがわる付き合い。周りから見れば華やかな青春を送っているように見えたかもしれないが、心の底の方では挫折感を抱え続けていた。  そんなことを考慮すると、萌黄の人生のピークは中学時代だったと言えるかもしれない。「足が速い」「運動神経がいい」というだけで皆から強く憧れられる、ぎりぎり最後の時期だ。あの頃の萌黄は、誰の顔色も窺ったりしなかった。常に自分が人の輪の中心で、主役で、好きな勝手に振る舞っていた。そして、自分がその立場にいることが当たり前だと思っていた。  着信音が鳴った。  萌黄は膝に置いていたバッグの中のスマートフォンを探り当てたが、その画面を確認する前に音は止んだ。 「え、来れないって…」  電話は、萌黄の隣に座っていた男性宛てらしかった。 「そりゃ約束はしてなかったけど、でも、こっちはずっと待って…」  その会社員風の男性は、年は萌黄と同じくらいの三十代前半に見えた。萌黄の中で男性としての評価を下すならば、中の下といったあたりか。しかし、イブの夜に来ない相手に必死に縋っているようでは、下の中、いや、下の下。要は、萌黄的に興味が全く持てない人物だった。 「いや、責めてはないけど。でも、え、あっ、えっ?!」  ツーツーと話の途中で通話を切られた音が、隣にいる萌黄の耳にも届いた。男性はスマートフォンを左耳から外すと素早くタップし、また耳に押し当てた。しかし、応答された様子はなかった。  男性は腕を脱力させ、スマートフォンを持っていた手を力なく下ろした。男性の手がベンチに当たったはずみで、スマートフォンが彼の手から抜け落ち、舗装された地面に転がった。男性は慌てて萌黄の足元で止まったスマートフォンを拾った。萌黄は男性一般に対して持っている嫌悪感から、男性から自分の脚を避けた。男性は身を起こすついでに、萌黄を上目遣いに一瞥した。  座り直した男性は、しばらくは落としたスマートフォン熱心に触り状態を確認していたようだったが、それを一通り終わらせると、隣の萌黄の顔をちらりと見た。それからも、彼は手元の端末をひっくり返したり元に戻したりの、その合間に萌黄を見た。というより、萌黄を見ていることを誤魔化す為にスマートフォンを弄っているのだというのが明らかだった。  街中でこんな状況に遭遇した時、大人しい女性であれば何も言わずに静かにその場を離れることだろう。しかし、萌黄はそういった女性ではなかった。その点については、人生の底であるこの夜であっても変わりはなかった。 「なんなんですか?人のこと、じろじろ見て。失礼じゃないですか?」  同じ様に男から不躾な視線を浴びせられたことは何度もある。萌黄の経験上、そういった無礼な行いをしてくる輩は、こちらが強気で抗議すれば大体は無言でその場から立ち去る。でなければ、自意識過剰だのなんだの悪態吐きつつ、それでも去って行く。そうもならなければ、喧嘩になる。そして、男相手であれば口喧嘩には負けたことがない萌黄だ。  しかし、殴り合いになったら?世間受けの悪さから長い間隠してはいるが、萌黄は腕力にも自信があった。並みの男性相手ならもちろん、目の前にいる見るからに貧弱な男になど負ける気がしなかった。  男は間近での抗議が耳に入っていないことなどあり得ないだろうに、萌黄から視線を逸らし通行人たちが通り過ぎる真正面に顔を向けた。 「ちょっと、聞いてます?!」  萌黄がさらに強い調子で言っても彼はただじっと前を見ていたが、そのうち、ようやく萌黄と顔を合わせた。 「あの」 「はい?!」 「うさ……宇佐美さん?宇佐美萌黄さん?」 「……」  萌黄は相手の顔を服装を、改めて確認した。夜の街で遭遇するようなタイプではない。自宅の近所でも、見かけた覚えはない。それなら、昔の知り合いか?社会人時代はそれこそ無数のサラリーマンと対面したが、萌黄の下の名前まで知った相手はそういない筈。では、大学時代の知り合いか?萌黄が十年以上時を遡っても、冴えないその顔は記憶になかった。 「…誰?」  男は自分を指差した。 「中学の時、同じクラスだった鹿田(しかだ)」 「……あ」  ついさっきまで人生を振り返り、思い出していたお陰だろう。萌黄は遠い中学時代のことを比較的すんなりと思い出せた。当時の同級生、鹿田恵(めぐむ)のこともだ。  「同じクラスの鹿田くん」こそ、萌黄の輝かしき時代を象徴する人であった。「鹿田くん」と萌黄が、青春の甘酸っぱい思い出を共有するような良い仲であったとかでは、ない。寧ろ、味に例えるなら苦いような塩辛いような、お世辞にも良いとは言えない仲だった。  当時、中学校で女王様然として振る舞っていた萌黄は、地味で要領が悪い同級生の男子が自分に特別な好意を抱いているらしいことに気が付いた。  その男子は萌黄を前にすると、もじもじと手を後ろに回し、頬を紅潮させ、声を上擦らせ、わかり易い反応を見せたので、人一倍他人の感情に無関心な萌黄にも簡単に察せられたのだった。しかし、ぼさっとして垢抜けない下の中の容姿、理数系の教科にはやや強いが他は平均以下の成績、そして絶望的に運動音痴な鹿田少年に、萌黄の方が惹かれる要素はなに一つなかった。  鹿田の気持ちに気付いた当初、彼からの好意と彼自身を疎ましく感じた萌黄は鹿田を避けていたが、そのうちに、どんなに冷たくしても慕ってくる彼を、十代前半特有の残酷さでいいように使うようになっていった。  萌黄がやってこなかった宿題をノートに写させたり、日直の仕事を肩代わりさせたり、教科書を忘れた時には、これから受ける授業が同じ鹿田が困だろうことをわかっていながら、彼から教科書を借りたりした。それから、掃除当番。女子トイレの掃除を彼に押し付けた時には、さすがに、いつもつるんでいた悪友もやり過ぎだと萌黄をたしなめた。  ただ当時の萌黄の弁護をするならば、鹿田はいつでも、萌黄の横暴な頼み事を快く引き受けていた。それは、確かに「心から」だった。周りから二人がどう見えていたかは知らないが、それは二人の間で共通認識されていた。  だからといって、萌黄の中で鹿田は自分と対等の存在には決してならなかった。鹿田と萌黄とは、そういった関係だった。 「……元気そうだね」  女性向けの漫画やドラマであれば、再会した冴えない同級生は高収入の超絶イケメンに成長していたことであろう。しかし、鹿田は少年だった彼をそのまま大人にしただけの姿。着ているスーツもよくある大量生産の安物に見えた。  だからして、同窓に邂逅したところで萌黄からは彼に聞きたいことも話したいことも、特になかった。 「元気……たった今、フラれたんだけどね。宇佐美さんは?今日はどうしてここに?」  鹿田から特別喜びの気配が感じられなかったことに、萌黄は少し肩透かしを喰らった気分になった。 「今日は手続きで、ちょっとね」  その萌黄の言葉に、嘘はまったくなかった。 「そうなんだ」  萌黄は一瞬、鹿田に誘われるかと思った。彼にとって萌黄は多分、初恋の人だった。どんな扱いをされても、好きであり続けた相手だった。彼は女性につれなくされた直後でもあり、「今日、これからまだ用事があるの?」なんて、聞いてくるかもしれない。普段なら鹿田のような男は全く相手にしない萌黄だが、今日だったら誘いにのってやってもいいかもしれないと思った。  だが、鹿田は萌黄に「それじゃ、これで」の軽い会釈をしただけで、後は正面に向き直り、またスマートフォンで電話を掛け直しだした。横に居る萌黄の存在など、一瞬で忘れてしまったかの如く。  電話の相手はやはり出てこなかったのか、鹿田はまたスマートフォンの場所を耳元から視線の先へと移した。 「……彼女?電話、繋がらないね」  奇跡の再会を果たした初恋相手の自分を差し置いて、鹿田が熱心に執着している女性がどういった人物なのか、萌黄は急に興味が湧いてきた。 「あ、うん」  まだいたのか、という鹿田のぞんざいな態度で、かえって萌黄も図々しかろうが全部聞き出してやろうという覚悟が決まった。 「どんな人なの?その、さっきから電話かけてる相手の人。いくつ?」 「え……」  まだ電話を掛けたそうな素振りを見せた鹿田だったが、自分自身を一旦諦めさせる切欠にしたかったのか、萌黄に向き直った。 「二十四」  十近くも年下の女に弄ばれているのかと、萌黄は内心で同じ年の男を嘲笑った。 「どうやって知り合ったの?仕事関係?」 「いや、……SNSで」 「へぇー」 「いや、違うから」 「違うって、何が?」  たしか、中学時代もこんな感じで萌黄は鹿田をからかって遊んでいた。 「だから、恋人見つけたいとかで知り合ったんじゃなくて、趣味の繋がりで知り合っただけ」 「ふーん。趣味って、どういう?」 「走ってる。たまにマラソン大会にも出たりして」  てっきりインドアな趣味だと、彼があの当時好きだったアニメや漫画、そういった系統の趣味なのだろうと思っていた萌黄には、彼の答えは意外だった。 「タイムは?速いの?」 「いや、この間の大会でやっと五時間切ったくらいで」 「彼女は?」 「彼女?」 「電話の相手。速いの?」 「彼女は、僕より全然」  そう答えた鹿田は頭の中がまた彼女のことに戻ったか、スマートフォンに眼だけを向けた。その姿を見た途端、萌黄は提案していた。 「ねぇ、鹿田くん。競争しない?」 「はい?」 「ここから、むこうの並木のイルミネーションが終わる所まで。今、途中の横断歩道が赤になってるから、あれが青に変わったらスタートね」 「え」  ベンチから立ち上がった萌黄は、十センチヒールのパンプスを脱いだ。ひやりと冷たい地面と空気が触れてきた代わりに、靴擦れによる痛みと足全体への圧迫感から解放された。なんだ、最初からこうしていれば、足の痛みなんかに苦しまずに済んでいたのか。 「宇佐美さん?」 「ほら、もう変わるよ」  信号が青に変わった。萌黄は走り出した。鹿田はベンチに座ったままで、走り出そうとする気配はなかった。それでも、萌黄はかまわず走り出した。  道行くカップルたちは、そうでない人々も皆、突然一人走り出したいい歳の女を、この世の異物を見るような目で見た。それどころか、萌黄を存在しない物として完全に無視している者も、揺れる視界の中ちらほら目に付いた。  萌黄としては、周りの人々の態度は大して気にならなかった。そんなことよりも、驚いていた。もっと速く前に前に進んでいるつもりが、なぜか脚が体が動かず、ちっとも前に進んでいかない。走るには不適当な身体にまとわりつくロングコートやニットワンピース、手に持ったパンプスや肩にぶら提げたバッグが萌黄の走りを邪魔していたが、それにしても重い、遅い。  余裕で通り抜けられると思っていた横断歩道も、渡り終えたのは青信号の点滅が終わろうとする間際、ギリギリだった。しかも、ゴールまでの中間地点までまだ届かないという場所で、早くも脇腹が痛んできた。本人が信じられない程、萌黄の身体は知らぬ間に衰え切っていたのだった。  しかし、十二月の外気に冷やされた頭でよくよく考えてみれば、それも当然だった。服装はともかく、まともに走るなんて十六年振りのことだった。なんと、半生振りだ。  風が、耳の横を音を立てて通り過ぎていき、また、汗ばんできた額に頬に当たってくる。肺が空気を取り込み、そして吐き出しを繰り返し、身体全体が大きく揺れながら、前に進む。それらを感触、感覚を感じ、萌黄は自分が元々いた、あるべき場所に帰ってきたのだと素直に受けとめた。  全ての動きが「走る」という一つの目的に集約され、結果、足元の地面と両端に見える景色が、後ろ後ろへと流れ去っていく。走っている。そのこと以外の何もかもが、どうでもいいことのように思えた。きっと、買い物や夜遊びに逃げるのではなく、こうしてただ走っていればそれで良かったのだ。いまさら、もう何もかも、遅くはあるが。  いよいよ息が上がり腹の痛みに耐えられなくなった萌黄の走りは、歩みとなった。そして、その歩みも終には止まった。  萌黄の横を、風を残して黒い影が通り過ぎた。暗い色のスーツ姿の男、鹿田だった。てっきり一人で走っているものと思っていた萌黄は驚いた。それと同時に、思いのほか嬉しかった。  鹿田はペースを上げも下げもせず淡々と走り、ゴールであるイルミネーションの際となる街路樹の下に到達した。萌黄のいる後ろを振り向いた、彼の通勤鞄を持っていない方の手には、いつの間にか萌黄が落としていたのだろうベージュのパンプスが一足、引っ掛かっていた。萌黄の、ただの負け以上の完全な敗北が決定した瞬間だった。  完走しようという気も失せた萌黄は、すぐ横の街路樹に寄りかかり、それでも身体が辛くて路上に座り込んだ。都会の表通りでそんなことをしている人間は、他に誰もいなかった。  安っぽい黒いビジネスシューズが、萌黄に近付いてきた。すこし目線を上げると、萌黄が憧れ苦しめられ、終にはどうでもよくなったパンプスが揺れていた。 「大丈夫?」  鹿田は気遣うというよりも、呆れている口調だった。 「大丈夫じゃないよ」  萌黄は立ち上がったが、すぐには履けば確実に苦痛を与えてくるであろう靴を受け取る気になれなかった。 「こんな日に、街中で走ったりなんかして」  それも、昔も今も、全然興味が無い男の気を引くために。 「全然大丈夫じゃない。どうかしてる。でも」  萌黄はヒール分引いても、まだ自分よりすこし低い位置にある鹿田の冷め切った目を見返した。 「鹿田くんも大概だよね。ずっと年下の子にイブの夜にフラれて、それでもしつこく電話掛けて。年甲斐ないっていうか」  萌黄が鹿田にぶつけた言葉に深い意味も意図もなかった。ただ、自分一人が惨めでいるのが厭で、道連れを作りたかっただけだった。 「仕方ないよ。足の速い子が好きなんだ」  鹿田は皮肉っぽく笑った。多分、萌黄を嗤い、自分も嗤っていた。 「いつまで小学生やってんの」 「初恋でつまづいちゃったから、仕方ないよ」  二回目の「仕方ない」を言ってから鹿田は、持ち主の前にパンプスを揃えて置いた。  「鹿田君の靴、貸してよ」。もし中学生時代の萌黄が自分の靴で足を痛めたら、彼にそう言っただろう。そして、さっきの勝負でもし萌黄が勝っていたら、圧倒的な差をつけ、呼吸を一つも乱さずにゴール地点で萌黄の方が鹿田を振り返っていたら、やはり萌黄はそう彼に言った筈だ。そうやって無茶な頼まれ事をされた鹿田は、喜々として萌黄の言う通りにしていたことだろう。  そう萌黄は確信する。だが、本当に実際にそうなったか、それを確かめる術はない。萌黄は彼との競争に負けた。そうして鹿田はたった今、萌黄に背を見せ、元来た方向へと去って行った。  萌黄は爪先でパンプスをつついた。走っている間に感じていた懐かしい熱は、跡形もなく消え去っていた。物質で構成された十二月二十四日のこの夜を、どう乗り越えて行くか。決めていかなければならない時が、戻ってきてしまっていた。  萌黄は、まだ軽傷の方の右足だけを靴に収めた。左足は決心がつかず、足の指で靴底を撫でるに止まった。ほんの少し前にいなくなった鹿田と、彼に負けた惨めな自分について、萌黄は考えようとした。そうやって自分を憐れんでいた方が、他の何を考えるよりも楽だった。だが、その安易な逃避はすぐに打ち切られた。  萌黄が思考の合間にぼんやりと眺めていた人の流れ、その先に人々が吸い込まれていく、ビルの開口部があった。上部に照らし出された駅名は萌黄のそもそもの目的地とは違ったが、そこが駅の入り口であることには変わりなかった。  メリーだの、ハッピーだのとは程遠い。だがきっと、それでも今晩は最悪ではない夜だ。思えば、これまでの萌黄の人生は恵まれていた。そして、こうしてこれからの萌黄の人生もまた、恵まれているのだ。それは、死ぬまでずっとだ。そうに決まっている。そう、決めた。  それからの萌黄は早かった。迷いなく左足もパンプスに滑り込ませてしまうと、顔に苦痛の皺を一本も寄せることなく、平然と帰途の人の波に合流した。
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