『いま、走れ!』

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 最悪だ。文花は黒板を見つめた。来月やって来る体育祭に向けて、各種目の出場選手を決める話し合い。一人一種目は出場しなければならない中、ジャンケンに負けた結果、文花はリレーメンバーに選ばれてしまった。リレーは男女混合で各自がグラウンドを1周ずつ、合計5周走るというルールだ。男女が交互に走ればよく、また第4走者が連続で2周走ってもよい。文花は第4走者になった。 「マジかよ、ドジがメンバーか。」 「今年は終わったな」 ヒソヒソと囁きが教室中を飛び交う。文花は唇を噛んで俯いた。文花は元より運動神経が良くなかった。もちろん、足も遅い。いじわるな男子からは、名字の「戸枝八」をもじって「ドジ」ともあだ名されていた。 「いや分かんねーぞ。沢村がいるんだし。」 「そうだな、沢村がどうにかしてくれるよ。」 それに比べて、幼馴染の浩太はスポーツ万能だった。50m6秒台の瞬足で、何をやらせてもセンスが良かった。おまけに成績優秀で顔立ちも性格も良いと来たもんだから、学校中の羨望を集めていた。そんな浩太は、文花のあとの第5走者、つまりアンカーだ。  放課後、俯きながら帰り道を歩いていると、隣りに影が差した。 「大丈夫か?嫌なら誰かと代わってもらったら……」 「ううん、大丈夫。ジャンケンに負けちゃったんだもん。しょうがないよ。それに、他にリレーやりたい女の子なんて、いないよ。」 私の返事に、浩太がふぅーっとため息をつく。 「文花が良いなら良いけど……なんかあったら言えよ。」 浩太は優しかった。幼い頃からいつも隣りにいて自分を気にかけてくれる浩太に、文花はいつしか好意を抱くようになっていた。 「うん。ありがと、浩太。」 私の言葉に、浩太が顔を伏せる。「ん」という短い返事。思わず、その腕に手を伸ばす。触れた腕の先で浩太が顔を上げた。 「私ね、浩太のことが……」 言葉が、口をついて出る。浩太が叫んだ。 「危ない文花!!!」 声と同時に浩太に突き飛ばされる。直後、激しい衝突音が響いた。衝撃で道路に尻餅をつく。 「痛っ……!」 腕を擦っていた。何が何だか分からないまま、顔を上げる。道の脇、街灯のあたり、ついさっきまで私たちが歩いていた場所に、赤い車が突っ込んでいた。 そしてその車の影に、浩太の姿がーーー 「浩太!!!」 浩太に駆け寄る。目を閉じ、足を車に挟まれた浩太。身体を揺さぶる。必死に声を掛けながら身体を揺さぶると、ややあって、浩太が薄目を開けた。 「浩太っ!!」 「文…花……」 私の呼び掛けに、浩太がゆっくりとそう言葉を発した。涙がぽたぽたと道路に落ちる。浩太が目を動かし、そして私の腕に手を伸ばした。 「腕…怪我しているじゃないか……僕のせいで……」 「浩太のせいじゃない!怪我も、こんなの浩太に比べたら……!……ごめんなさい……私のせいで…………」 「文花のせいじゃないよ。…ごめん、動けなくて。警察と救急に連絡、頼めるか?」 「う、うん……。」 浩太の指示を受け、携帯で双方に連絡をする。警察と救急が到着するまで、私はずっと、浩太の手を握っていた。  浩太の怪我は、右足の複雑骨折だった。浩太は治療のため数日間の入院を余儀なくされ、クラスでは欠員が出てしまったリレーのメンバーを練り直すため、連日話し合いが持たれていた。案の定、要である人間が抜けたことで、クラスの雰囲気は下降気味だった。 「私、やります!」 気が付けばそう声を上げていた。クラス中の視線が集まる。 「ラスト2周、私が走ります!」 泥濘みのようなざわめきが渦巻く。 「いや、でも……」 実行委員の子が戸惑ったように声を発した。それを押し切るように、声を張り上げる。 「お願いします!私に走らせてください!!」 戸惑っているような空気の中、頭を下げ続ける。どうしても、走りたいと〝意地〟が痛切に叫んでいた。 「浩太が怪我をしたのは私のせいなんです!だから…だから……!」 気付けば涙がポタポタと垂直に床に垂れていた。こんな時に思わず泣いてしまう自分に歯痒くなりながら、必死に頭を下げ続ける。 「…まあ、良いんじゃね?」 後ろの方から声が聞こえた。顔を上げる。クラスのムードメーカーでリレーの第3走者の男の子が、口角を上げていた。 「どうせ他に、走りたいやついないんだろ?」 潮野くんの言葉に、女の子たちが俯くようにして顔を逸らす。潮野くんが続けた。 「んじゃ、戸枝八に4,5走ってもらうってことで」 「戸枝八まで絶対1位でバトン繋げるぞ!いいなお前ら!」 仕方ないといったように、みんなが軽く相槌を打つ。潮野くんが私にニッと歯を見せて笑った。 唇を横に結び頷く。絶対に、頑張りたいという気持ちが胸を占めていた。  体育祭当日。赤いはちまきを額にしっかりと巻き付ける。 「位置について、ヨーイ……」 ピストルの音が響いた。一斉に、選手が走り出す。土煙りが駆け抜ける。皿状にした両手に、息を吐く。大丈夫。私なら、出来る。 一つ前の走者ー潮野くんが、グラウンドを駆け抜けて行った。順位はトップ。白線に立つ。次は、私の番だ。 「戸枝八!」 「うん!」 潮野くんがトップで私にバトンを伸ばした。それを受け取り、必死に足を動かす。絶対に、負けない。絶対に、勝つんだから! しかし、ここ一か月足らずの努力では俊足に敵うわけもないのはもはや明白なことで、私の横を、2人がすり抜けて行った。 「くっ……!」 歯を食い縛る。現在、順位は3位。最下位だけは、何が何でも免れなければならない。 手前を走る2人が順にバトンを次の走者に渡した。アンカーにバトンが渡る。真横に、影が並んだ。 「文花!」 数メートル先、バトンパス地点、ラスト1周の白線で、浩太が私に手を振っていた。驚く間も無く、浩太が手を後ろに伸ばした。考える暇も無く、バトンが渡る。隣りのレーンと、ほぼ同時だった。 「文花、任せて」 目の前を、浩太が駆け出して行く。あっという間に、背中が遠ざかる。ざわめきが波のように広がった。右足にテーピングをした浩太が、リレーを走って行った。 最後のカーブ、浩太が一人抜いた。直線、あと一人。距離が徐々に縮まる。あと5m。並んだ。そしてーーー ゴールテープを切ったのは、ほぼ同時だった。 歓声が湧き上がる。浩太の左足が、わずかに早く、ゴールラインを踏んでいた。 ゴールした衝撃で、浩太が前に転がるように倒れる。 「浩太!」 思わず駆け寄る。私の顔を見て、浩太が照れ臭そうに笑った。 「こけちゃった」 「そうじゃなくて……!」 浩太の足に視線を落とす。右足にはテーピングがされていて、彼が足を怪我しているということを浮き彫りにさせた。 「何で……!」 「きつめに巻いたから大丈夫だよ。」 「そうじゃなくて……」 恨めしいことに涙が滲んだ。どうして彼がここまでしてリレーに出たかったのか、分からなかった。 「何でって…そりゃあ、嫌だったから。」 「えっ…?」 浩太の言葉に顔を上げる。浩太と目が合った。 「…文花が責任を感じてラスト2周走るのも、僕以外の人が文花からバトンを受け取るのも、嫌だったから。」 「……」 「無茶かもしれないけど、文花から自分がバトンを受け取りたかったんだ。」 「浩太……」 浩太が視線を逸らす。その顔が、少し紅い。 「何してんだよ浩太。足、大丈夫なのか?」 その時、クラスの男の子たちが浩太のまわりを取り囲んだ。心配していることをごまかすように肩を叩いたり揉んだりする男の子たちに、浩太が答える。 「ああ、テーピングきつめにしたんだ。それよりお前ら、」 「文花に何かしたり、文花のことを悪く言ったりしたら許さないからな」 その言葉に顔を上げる。浩太の表情は見えなかった。 男の子たちが一瞬ポカーンとした表情を浮かべ、揶揄うように浩太の肩に手を回した。 「なんだよ、お前ら、そういう関係なのか?」 「悪いか?」 浩太が強い眼差しで男の子たちを見た。男の子たちが絶句する。 「あ、あの…浩太っ……!」 思わず浩太の名前を呼ぶ。浩太がハッとしたように一瞬肩を微動させた。 「…………何?」 「…そ、それって、どういうこと?」 浩太の背中に問う。男の子たちが浩太の肩をつついた。 「ほらほら、後ろの子が聞いてるぞ。」 浩太は何も言わない。たまらなくなって、浩太のビブスの裾を撮む。 「……っ!」 浩太が髪の毛をいじった。そしてそのまま無言で立ち上がる。目を逸らしたまま、浩太が呟く。 「…後で、言うから。」 「う、うん。」 私だけに聞こえた言葉に頷く。男の子に肩を支えられて歩いて行く背中は、どことなく懐かしさと新しさが外に出そうになるのをこらえているように思えた。
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