魚、爆ぜる。【水魚シリーズ#4】

2/8
5人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ
「五郎先生、おはようございます」 「五郎ちゃん、おはよう」  欠伸を噛み殺し、夏休みに朝から部活動に励む生徒を横目に見ながら、掛けられる親しげな挨拶に「おう」とか「おはよう」とか返して校庭を横切る。 「誰も北園先生とは呼ばないですね」  昇降口で靴を履き替えていると、何処で見ていたのか、話しかけてきたくすくす笑いの女教師が「おはようございます、五郎先生」と続けた。てらてらと濡れたような光沢の唇を、隠し切らないよう添えられた手。その指先は、如才なく磨かれているくせに、うぶな桜色が塗られている。計算高いとは思いながらも、五郎は心が凪いだ。女性が自らの容姿をよく見せようとするのは健気で可愛らしいし、自分がそうされる対象であるのは、心地良く背筋を伸ばさせてくれる。それ以上の感動は無いが。  女性に対してその程度にしか思えない自分は、恋愛事の外側に居る方が親切だろうと五郎は考えていた。事実これまで、女に煩わされるより、友人や動物に煩わされる方が楽しいし充実感があった。  職員室で鍵を取り生物室に向かう。閉じた引き戸の前で、一人の女生徒が壁に背をもたれて本を開いている。 「。おはようございます」  こちらが声を掛けるより先に、たまたま同じ姓を持つだけで何の繋がりも無いはずの生徒、北園深結(ふゆ)が、読んでいた本から顔を上げた。 「夏休みにまで来る必要無いと言ったろ」 「図書室の開放日だったんです。うっかり早く来すぎてしまったので、亀の様子でも見ようかと思って」  澄ました顔でもっともらしいことを言うが、昨日は「友達の部活を見学するついで」だったし、その前は「忘れ物を取りに来たついで」「亀がお腹を壊す夢を見た」なんて訳のわからないものもあった。  何が気に入ったのか、五郎に懐くこの生徒は、なんだかんだと理由をつけて、夏休みだと言うのにほぼ毎日登校している。生物室で飼っている魚や鳥、大概の女生徒たちから嫌われる両生類、爬虫類、昆虫にまで餌をやり、五郎の時間の許す限り、ここで勉強して帰って行くのだ。真面目だか不真面目だか分からないので、怒るに怒れない。 「今日は餌だけやったらすぐ出るからな。昨日言い忘れたが校外研修だった。悪い」  カーテンを開けながら自分で放った一言に首を傾げる。確かに毎日顔を合わせてはいるが、これでは待ち合わせしていたみたいではないか。慌てて言い繕おうとしたが、「じゃあ、亀の様子だけ見たら私も図書室へ行きます」と平然と受け止められ、言い訳する機会を失ってしまい、まあいいかと口を噤んだ。流されている自覚はあるが、この少女にはどうも弱い。  急いで動植物の世話をしながら、無意識に深結の姿を視界の隅に縫い付ける。そう言えば、あの夢を頻繁に見始めたのは、この生徒が体育の授業中に貧血で倒れるのを見た頃からだと、ふと思い至った。  あの日の深結の、蒼白になった顔が目の前にちらつく。細やかに震える唇から吐き出される息が凍えそうで、真夏なのに白く見えた気がした。  それを見た瞬間、ぞうっとしたものが背中を這い上がったのだ。「わあ!」と叫びたい声帯を慌てて抑えつけ、平気なふりして逃げるように保健室を後にした。  そこまで思い出して、「ああ、あの夢と同じ、敵前逃亡したような気分だ」と繋がった。似た感覚に誘発されていたのだろうか。 「先生、雛の餌はどうするんですか?」  心配そうな声に、現実へ引き戻される。  数日前から世話している雀の雛の事だ。部活に来ていた生徒の一人が校庭で保護したのだが、すぐに持て余したらしく、託された。しかし、こちらとて暇ではなく…… 「段々と自分で食べられるようになってきたから、気にしなくて大丈夫だよ」 「じゃあ、もう安心ですね。良かった」 「世話かけたな。面倒だったろ」 「そうですね。研修が終わったら急いで帰るから一時間おきに餌やりしといてくれ、と言われた時には途方に暮れました。育児って大変なんですね」  くすくす笑う素肌の唇の健康的な赤と、隙間からちらりと覗く歯の白に、ちょっとした感動を覚えながら見入る。その口から零れるのが混じりけのないものばかりだと、五郎は既に知っている。 「その節は本当に…… そうだ、あの時の礼、すると言ったきり、まだしてなかったな。ああ、マズい、もう出る時間だ。なんか考えとけ。現実的なやつな。繁殖して増えた魚を十匹程引き取りたいとかな」 「先生が押し付けたいだけですよね」 「安心しろ、ベタの飼育は案外簡単だ」  深結を廊下に追い出して鍵を締め、じゃあな、と去ろうとする背中に「金魚、」と声が投げつけられる。 「ん?」 「押し付けられるなら、橙色の金魚が良いです」  「わかった」と振り向きもせず返事しながら、五郎は、少しつまらなく思った。以前は、事あるごとに口にしていた「結婚してください」を、そういえば最近、聞いていない。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!