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玄関のドアは全部開けずに、隙間からお見舞いを受け取ればいい。具合が悪いからと言ってお礼は後日すれば失礼にはならないはずだ――そんなシミュレーションを何度も繰り返しているうちに、部屋にインターフォンの音が響いた。明が慌ててそれに応じる。
玄関へと向かう足がもつれそうになるほど震えていた。やはり、あんな言葉を言う人なのだと分かると急に怖くなる。なんだかめまいもして、本当に具合が悪くなったようだった。
「はい……」
玄関のドアを少しだけ開け、明が顔を出す。向こうに立っていた永兎は笑顔だった。
「無理に会ってもらってごめんね。心配だったんだ……ああ、これ、お見舞い」
永兎が手にしていた袋を明に差し出す。明は手を伸ばし、それを受け取った。
「ありがとうございます……」
「こんないいトコ一人で住んでるの? 兎田家やっぱすげーな」
「あ、いや……ここは、同居人がいて……」
「……それって、番?」
明の言葉に永兎が静かに聞いた。その声の低さに明が永兎を見上げる。
「だから、こんなに発情の匂いがするの? てか、兎田くん……女の子になる?」
明に近づき、永兎がそっと聞く。それが怖くて、明は咄嗟にドアを閉めようとした。けれどその隙間に足の先をねじ込まれ閉められない。逆に永兎がドアに手を掛け、そのドアを大きく開いた。
「……兎田の息子を番にしたら、結構……いや、かなり鼻が高いよね」
そう言ってこちらを見下ろす永兎の目は、獲物を捕らえようとする獣のそれだった。明はその場に受け取った袋とスマホを落とし、ゆっくりと後退りを始めた。
「帰って、ください」
こちらに近づく永兎から距離を取り明が言う。当然ながら、その言葉に、そうですかと帰るわけがない。永兎は更に明に近づいた。
「ねえ、体辛いんでしょ? 番おう? 優しくするから」
その言葉を聞いて明の背中が恐怖に震えた。部屋の中に駆け込み、ダイニングチェアを倒して永兎から距離を取る。
とにかく逃げなくてはと思った。自分の身を一人で守る――優と番いたいから、あの人の笑顔を大事にしたいから、あの人が悲しむようなことにはしたくない。
今、自分が永兎に体を奪われたら、きっと優は悲しむ。明のことを思って一生抱いてくれなくなるかもしれない。優は冷酷なんかじゃなく、とてもやさしい人だから――
「兎田くん、逃げたって疲れるだけだよ。酷くなんかしないよ。うちの社長とは違うんだから」
明が永兎と距離を取りながら、ソファのクッションを投げつける。それだけで息が切れた。けれど諦めるわけにはいかない。
「社長……優さん、は……やさしいです。誰よりも!」
明はテーブルの上のリモコンを咄嗟に掴み、永兎に向かって投げつけた。それが永兎の顔面に当たる。その隙に明はテラスへと逃げ込み、窓を閉め観葉植物の陰にうずくまった。
じっとしていると部屋の中から、どこ行った、という怒号が聞こえる。明は怖くて更に縮こまる。心臓がバクバクと激しい音を立て、呼吸も荒くなる。
このままじゃ見つかるかもしれない、その時は――そう思って、明はテラスの向こうの空を見つめた。
「ここから、飛ぼう……」
あんな人と番うなら、優と番えないのなら、ここで何もかもを終わらせてもいい。優は悲しむかもしれないけれど、他人に体を暴かれるよりずっといい。
明がそう決意した、その時だった。
掃き出し窓が開く音と、スマホの着信音が同時に響いた。
「……ちっ、会社か」
永兎はそう言うと、次には声色を変え、お疲れ様です、と窓際で話し始めた。会社から戻る様に言われたのだろう、これから戻ります、と言ってからため息を漏らした。
「兎田くん、今日は時間切れだけど、次は捕まえるから」
部屋に向かって言っているのだろう、永兎の言葉を聞いて、明の体が震える。とにかく怖かった。けれど、永兎の気配が消え、とにかく今は自分のことを自分で守り抜けたことに明は長い安堵の息を漏らした。
けれど、体の不調が治ったわけではない。明は急に動いてしまったせいか、めまいに襲われ、そこから動くことすらできなくなってしまった。
「……優さん……」
寂しさと辛さで、思わず優を呼ぶ。明はゆっくりと目を閉じて瞼の裏に優を思い出して、じっと耐えるように膝を抱えた。
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